慶応元年(1865年)10月、野村望東尼は姫島(現:福岡県糸島市)へ流刑となる。 慶応2年(1866年)9月、高杉晋作の指揮により姫島から脱出の手引きをし、野村望東尼は下関の白石正一郎宅に匿われた。 慶応3年(1867年)4月13日(命日は14日)高杉晋作は下関において結核のため27歳8ヶ月の生涯を閉じた。 慶応3年(1867年)11月、望東尼は三田尻(現:山口県防府市)で62歳で死去。 |
ものゝふの あたに勝坂 越えつつも 祈るねきこと うけさせたまえ |
勤皇の歌人野村望東尼は、慶応3年秋、討幕軍の当地船出にあたりその戦勝祈願のため防府天満宮に七日まいりして毎日和歌一首を手向けられた。碑の歌は、その初日の献歌である。 |
面白きことも なき世を おもしろく 晋作 すみなす ものはこころなり けり 望東尼 |
勤皇志士女流歌人の野村望東尼は、高杉晋作(東行)を擁護し、その罪で姫島に流罪となり、晋作はその望東尼を姫島から救出した。 望東尼は、病床の晋作を下関に度々見舞ったが、死期の近づいた頃この歌が出来た。 晋作が上の句を、下の句を望東尼が歌った。 左右の碑の石材は、いずれも姫島から運ばれたものである。
防府市野村望東尼会 |