高浜虚子の旅

「敦賀行」   (立子挿記)

indexにもどる

 昭和32年(1957年)10月4日、高浜虚子は敦賀市の招待を受けて星野立子と敦賀へ。高木晴子は金澤から敦賀へ。伊藤柏翠愛子の母も敦賀に着く。

 今は早や多少昔語りになるのであるが、愛子、愛子のおつ母さん柏翠等と山中温泉を出て京都へ行く時に、愛子等は三國で下車する筈であつたのを、強ひて途中まで送ると言つて敦賀まで送つて來た。汽車が敦賀に著くと三人はそこで降りて、尚ほ別れを惜しむやうな様子で、私等の乗つてゐる車の窓の外に立つて、手を擧げて淋しく見送つた。軈て遠からず愛子との死別となるのであつた。

 それが敦賀といふ所を強く頭に印象した初めであつた。

 「安宅」の謡に「氣比の海宮居久しき神垣や、」といふ文句がある。義經主從が山伏となつて、京を落ち延びて、奥羽の秀衡をたよつて行く、その道行の中の文句の一節である。氣比の海といふのは今の敦賀彎のことであり、氣比神宮は今も嚴かにある。

 敦賀の驛はその後も二三度汽車で通過したことがあるが、此處に下車する機會は一度もなかつた。停車した時、汽車から見下ろす町は低く、そこにある海が所謂氣比での海あらう。いつも日に光つて見えた。

 昨年の秋であつた。立子が來ての話に、何でも敦賀市から私を迎へ度いとのことを洩らして來てゐるといふことであつた。間も無く敦賀の市役所から手紙が來た。立子の友人の村井米子さんからも敦賀市の意向を傳へて來た。間も無く敦賀市の市會議員である宮川史斗君がやつて來た。史斗君は二三度京阪地方の俳句會で逢つたことがあるのださうである。

 私と立子と高木晴子の三人が、十月上旬に行くことになつた。

      (立子挿記)

 『昭和三十二年十月一日。「つばめ」に横濱から乘る。父と私。

和服著てこたびは曼珠沙華の旅
   立子

 京都驛著。松尾いはほ、靜子、中井余花朗、田畑比古、楠井光子、村田橙重、中山碧城、高野冨士子、梶田如是、中田余瓶、濱初也、それに叡山の渡邊惠進の諸氏の御出迎へ。

 明日叡山に行く事にしてゐたが渡邊さんにお話して、都合でお山から山田さん方が京都迄來て下さる事になるかも知れない。

 村田橙重さんの自動車で知恩院へ。

 知恩院には橙重さんのお嬢さま二人とお孫さん母子、祇園の里春さん、松ノ井の初子さん達が待つてゐた。句碑を見る。

東山西山こめて花の京
   虚子

 夕闇こめて來た境内で岸管長とお別れして柊家へ。渡邊惠進さんから電話で、山田さんと森定さんがお山の用が濟み次第に柊家へ來られるとのこと。渡邊さんだけ早目に來て、三人で夕食をとり乍ら待つ。八時頃來。「叡山百句」の相談。三人連れ立つて歸山。

 十月二日。冷々とした爽やかな秋晴。六時起床。日本銀行京都支店の藤川鬼人氏來訪。九時半宿を出て山科の橙重居へ。余瓶、如是、素十、佐竹宣孝氏等先著。庭内に立つた父と橙重さんの句碑を拝見する。

庫の戸を開き涼しき客設け
   虚子

山莊の背山の松の雪煙
   橙重

句碑の前に縁臺が置かれ、緋毛氈がかけてある。昨日の里春さんと一緒に久鶴さんも來る。冨士子も來る。先斗町の榮亭の津田せつ子さん、ゆふきの井雪ふみ子さんも來る。賑やかな晝食。一時半締切で五句。奥山初子さん、おくれて現はれる。

久鶴はさび朱の裾の秋袷
   立子

曼珠沙華ここにも咲いて庭案内
   同

秋晴の床几にかけて今一人
   同

濃き色の野菊ときけどまだ蕾
   同

かゝげたる簾もありて秋の風
   虚子

岩の間を流れて永久に瀧の水
   同

庭石に水打ち竹の手摺出來
   同



      (立子挿記)

 『四日、敦賀に向ふ。

余呉の湖すぐそこに見て旅の秋
   立子』

 市長、畑守三四治、史斗、敦賀市觀光課長、西村耿雨氏等の出迎へを受けて旅館玉川に著。

萩やさし敦賀言葉は京に似て
   虚子

 耿雨氏等から敦賀市に關する種々の説明を聞く。

 數時間後に金澤より來た高木晴子著。伊藤柏翠、愛子の母も著。嘗つて山中温泉から三國を通過し敦賀まで私等を送つてくれたのは愛子母子、柏翠等であつたのが、愛子は亡くなつて、今は柏翠に助けられて來た老いた母一人であつた。

 取敢ず氣比神宮に參詣することにした。

 大鳥居が二つ、稍々間を隔てゝ立つてをつた。今はそれが殘つてをる氣比神宮の僅かの俤に過ぎなかつた。境内は廣々としてその一隅に假りの宮が建てられてをつたが、悉く大東亞戦争の兵火に燒けてしまつた。その廃墟を取り圍んでをる神の森は尊く紅葉し初めてゐた。各新聞社のカメラマンは我等三人をその大鳥居の下に立たしめて寫眞を撮つた。

尊さや氣比の宮原粧へり
   虚子

秋天に氣比の鳥居の高さかな
   同

 その近くに聳えてをる山の上には後醍醐天皇の皇子尊良、恒良兩親王を擁して新田義貞並びに長男義顯の據つてをつた金ケ崎城址があり、(今は金ケ崎宮がある。)その麓に金前寺といふ寺があり、そこに芭蕉の、

月いづこ鐘は沈める海の底
   芭蕉

といふ句碑のあるのを一見。

 更に氣比の松原に車を驅つた。一帶の松原が長く海岸に延びてゐる。所謂氣比の海である敦賀灣の水は長く前方に廣がつてゐて日本海に連なつてをる。景勝のところと呼ばれてをる花城(はなじり)海岸に車を降りた。用意して來た籐椅子二三脚は松の間の砂上に並べられた。私等は暫くそれに腰を下して景觀を恣にした。また或る時は渚まで歩を移してみて、その囁く如き靜かな波がわづかに杖の先をなぶるやうなのを見た。私は波打際を一二町も獨りで歩いてみた。

松原の續く限りの秋の晴
   虚子

籐椅子置き氣比の松原歩きもし
   同

靜かさやあるかなきかの秋の波
   同

何事か囁く如く秋の波
   同

秋風や氣比の松原只歩く
   同

秋風の吹くとしもなき汀ゆく
   立子

 その夜は天氣は惡さうであつた。芭蕉が「奥の細道」の最後に、敦賀に著いてから、

明月や北國日和定めなき
   芭蕉

といふ句を作つてをるが、北國日和は定めなく、明日は大雨にならんとも限らぬと思ひ乍ら寐た。

 五日。朝早く目がさめて軒端の空を見ると、白い鱗雲がまだ明けきらぬ空にあつた。けふはいゝ天氣だと思ふ。昨晩は雨になることと想像してゐたが引きかへていゝ天氣である。

 九時、また氣比の松原に車を驅る。松原の入口で車を降りる。この近くの山で捕獲され檻に入れられてゐる羚羊(かもしか)を見る。近くの萩の枝を折つて與へる。よろこんでそれを食べる。市長夫人と史斗夫人とが其處に現はれて挨拶をする。

萩ちぎり羚羊にやり遊びけり
   虚子

 兩夫人も同乘、更に敦賀彎を抱いてゐる西浦に車を驅る。

 辨天岩で下車。伊勢の二見ケ浦に似た巖があつて注連がかゝつてをる。

 二村といふ村を過ぎる。そこは三世帶で人口は十五人の村である。山の麓に稻田が少しばかりある。

二村は刈田二枚に三世帶
   虚子

 名子村といふ村を過ぎる。そこは十二世帶で人口は七十人。海老捕りを業とする。

海老を干し且つ稻を干し名古の濱
   虚子

 繩間(のうま)、二十六世帶、百三十人。昭和十九年頃までは朝鮮牛が此處に輸入されて、それを敦賀に賣りに出たものである。娘が五六頭の牛を曳いて敦賀の方へ通つたものである。檢疫所の建物がまだ殘つてをる。

 常宮、そこには神功皇后が祀つてある。この常宮の祭では神輿を載せた船が仲哀天皇を祀つた氣比神宮に御幸する行事があるさうである。三韓征伐にはこの浦に御駐輿になつたとの言ひ傳へがある。

 千百年前の新羅の釣鐘がある。國寶であつて天女昇天の像が刻んである。

 芭蕉「奥の細道」には、

 十六日、空霽れたれば、ますほの小貝ひろはんと、種の濱に舟を走らす。海上七里あり。天屋何某と云もの、破籠小竹筒(ささえ)などこまやかにしたゝめさせ、僕あまた舟にとりのせて、追風時のまに吹著ぬ。濱はわづかなる海士の小家にて、侘しき法花寺あり。爰に茶を飲、酒をあたゝめて、夕ぐれのわびしさ、感に堪たり。

寂しさや須磨にかちたる濱の秋

波の間や小貝にまじる萩の塵

と誌してをる。

 色ケ濱の桟橋に船が著いた。多くの子供がその桟橋に出て來た。その中に一人の墨衣を著た坊さんがあつた。

 小さい桟橋を渡つて直ぐ砂濱に出た。市長や史斗君や耿雨君などに先導されて私等は一つの建物に著いた。それは普通の人家と餘り變りはなかつたが、本隆寺といふ寺だとの事であつた。

「濱はわづかなる海士の小家にて、侘しき法花寺あり。」と書かれてゐるその昔のまゝの法華寺がそれであつた。

「濱はわづかなる海士の小家にて、」とあるが如く、餘り澤山の家とも見えず、二十軒餘りの小家がその本隆寺を取り圍んであつた。私等は導かれて梯子段を上つて、その二階に上つた。

 机が並べてあつて座蒲團が十枚餘り敷かれてゐた。天井は餘り高くはなかつた。恐らく芭蕉も同しやうに斯かる建物の二階に休んだものであらうと思はれた。

 敦賀から持つて來たものであらう、辨當がめいめいの前に運ばれた。

「爰に茶を飲、酒をあたゝめて、夕ぐれのさびしさ、感に堪たり。」と芭蕉は書いてをるが、その時よりは人も大勢だし、辨當も「破籠小竹筒(ささえ)などこまやかにしたゝめさせ、」とある趣とは違つた唯の辨當であつたが、どことなくその時の事を思ひ出させるやうな風情があつた。殊に間もなく出されたものに鰆の刺身があつた。これが最前の艀の許に繋がれてあつた漁船から、今揚げられた鰆を料理したものであるとの事であつた。

「爰に茶を飲、酒をあたゝめて、」とある如く、この一行もすこし盃を傾けた。

 下の間には鉦が鳴つた。私等のために、芭蕉忌を繰り上げて修する、といふ事を前に史斗君などから話を聞いてをつたが、それがはじまつたのであつて、皆導かれて下の間に行つた。下の間には佛壇があつて、その前に、先刻桟橋で一度逢つた坊さんが、袈裟を纏うて佛壇の前に立つてゐた。簡単服を著てゐる坊の妻は、蝋燭に火を灯してゐた。どゞん、と大きな太鼓の音が響いたのは、一人の老人がそこに据ゑてある大太鼓を打つてをるのであつた。考へてみると、今日は十月の五日である。舊暦十月十二日の芭蕉忌を新暦に繰り上げて修するものとすれば、それでいゝわけせある。が、時雨忌と稱へてをるものとしては少しふさはしくない氣持もせぬではないが、併し私等のために、このゆかりある寺で芭蕉忌を修してくれる志は有難い事に思はれた。

住居とも見ゆる寺あり稻架けて
   虚子

二三杯温め酒に色の濱
   同

我れが來て繰り上げ修す芭蕉の忌
   同

芭蕉忌を繰り上げ修しくるゝとか
   同

この寺に芭蕉を描く忌日かな
   同

芭蕉忌の燭の芯剪る坊が妻
   同

甲斐々々し簡単服で坊が妻
   同

 大太鼓を打つたのは檀家總代であるさうな。

稻刈を休み佛事の太鼓打ち
   虚子

 一同は焼香をし、それからそのまゝこゝで俳句會を開く事になつた。

 船に乘つてをつた二十餘人の人々は皆俳句を作る敦賀の人々であつた。

 虚子、立子の選句のうちに、

暫くは舟屋に並び稲架つゞき
   三宅ひろ緒

稻架(はさ)にゐし漁夫手を休め虚子迎ふ
   同

十五戸の浦底村も豐の秋
   伊藤柏翠

ますほ貝小さき小さきを撰り拾ふ
   小濱ひろ志

秋晴や車を下りて船の客
   山本申兒

人里を離れ浦曲に稻を干す
   高木晴子

秋風や氣比の浦々美しき
   同

拾ひ行くますほの小貝濱小春
   水江柳史

今聞きしことを忘れて老の秋
   同

虚子拾ふすほの小貝秋日和
   倉谷雷子

波よけのごと並びたる稻城かな
   同

烏とび高稻架がくれ村乙女
   星野立子

住職と子等立つ見ゆる波止の秋
   同

秋晴の高き鳥居や氣比の宮
   濱虚子

籐椅子置き気比の松原歩きもし
   同

松原の樹海を秋の雲渡る
   高木桂史

芭蕉忌の寺に取楫島入江
   杉田越陽

色濱に虚子來るしらせ爽やかに
   西村耿雨

貝拾ふ萩こぼるゝを背に感じ
   野田耕史

秋汐のへだつ水島色ケ濱
   宮川史斗

 さきに桟橋に大勢の子供が出て來てをつたが、この坊さんの子供も交つてをつたものであらう。法事を修する時にも、二三人この寺の子供と思はれるものが向ふの座敷にゐるのが見えた。坊さん夫婦は別にそれを氣にとめるでもないのだが、なかなかに親しみもありあはれでもあつた。芭蕉がこゝにゐても決して惡い顔はしないであらうと思はれた。なごやかに法要も俳句會も終つてから、又二階に上つて暫く休んだ。

「其日のあらまし、等栽に筆をとらせて寺に殘す。」とあるその等栽の書いたものが、掛地に仕立てゝあつて柱にぶら下つてゐた。それが風の吹く度に柱を打つてゐた。

 この普通の人家と變らぬ本隆寺の建物に名殘りを惜しみながら一同は表に出た。其處にある芭蕉の句碑、

小萩ちれますほの小貝小盃
   桃青

の前に腰を下して、一同で寫眞を撮つた。

 天禄二年、歌枕の名勝を尋ねた西行は此處に來たのであらうか。

汐染むるますほの小貝拾ふとて

   色の濱とやいふにやあるらん
   西行

といふ歌も殘つてをる。西行を慕うてをつた芭蕉は、「奥の細道」の旅をこの地に終るに當つて、この色ケ濱を訪ふ事はかねての計畫の一つであつたものであらうか。

 この小貝を見る時は、何となく萩の花を聯想する。その大きさ、色等がどことなく萩の花の面影に似通うてをる。

小萩ちれますほの小貝小盃
   桃青

 等栽の書いた軸になつてゐるものにはこの句が認められてあつた。

掌にますほの小貝萩の塵
   虚子

芭蕉忌やますほの小貝拾ひもし
   同

 やがて一同は船に乘り込んだ。坊さんも坊の妻もその子供も皆桟橋に出て來て懇ろに別離を述べた。檀家總代も同じく頭を下げた。その他村の子供達も皆桟橋に集つて來た。海岸近くにある幅の廣い丈高い稲架が。今見て來た檀家總代の家を隱すやうに立つてゐた。本隆寺も木立の向ふにあつた。その他の家々も稲架かげや木陰になつてゐた。二十世帶、百四十人といふ色ケ濱は、さきの二村や名子村に較べたら大分大きいが、それでも、「濱はわづかなる海士の小家にて、侘しき法花寺あり。」とある通り、元禄時代に較べてみて、さ程の變化はないやうに思はれた。

 船が桟橋を離れて色ケ濱を振り返つた時に、その淋しい景色が心に染みるやうに覺えた。桟橋に立つてゐる坊さんや坊の妻が振つてゐる手拭は暫く目を離れなかつた。

秋風にもし色あらば色ケ濱
   虚子

 誰かが、いゝ月が出てゐます、と言つた。昨日は雨かと思はれたのが、今朝からいゝ天氣になつた。定めなき北國日和も我等に幸した事を思うた。

月清し遊行のもてる砂の上

と詠じたのは凡そこの頃の月ではなかつたかと思つた。

 六時頃になつて漸く一臺の上り列車が這入つて來た。私等(晴子も同伴)は諸君に別れてそれに乘つた。柏翠親子は淋しく窓外に私等を見送つた。丁度往年愛子と共にあつた時の如く。

(玉藻 昭和三十三年四月號)

高浜虚子の旅に戻る