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寛永年間(1624〜1644年)、佐渡の旧神領地鳥居ヶ浜から奉納された榁(むろ)の大木を用いたそうだ。 |
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元禄2年(1689年)8月14日(陽暦9月27日)、芭蕉は敦賀に着き、先ず氣比神宮に参詣した。 |
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その夜、月殊晴たり。あすの夜もかくあるべきにやといへば、越路の習ひ、猶明夜の陰晴はかりがたしと、あるじに酒すゝめられて、けいの明神に夜参す。仲哀天皇の御廟也。社頭神さびて、松の木の間に月のもり入たる。おまへの白砂霜を敷るがごとし。往昔遊行二世の上人、大願発起の事ありて、みづから草を刈、土石を荷ひ泥渟をかはかせて、参詣往来の煩なし。古例今にたえず。神前に真砂を荷ひ給ふ。これを遊行の砂持と申侍ると、亭主かたりける。 |
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『奥の細道』 |
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8月5日に山中温泉で芭蕉と別れた曽良は、9日(陽暦9月22日)、氣比神宮に参詣して泊まっている。 |
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一 九日 快晴。日ノ出過ニ立。今庄ノ宿ハヅレ、板橋ノツメヨリ右へ切テ、木ノメ峠ニ趣、谷間ニ入也。右ハ火 うチガ城、十丁程行テ、左リ、カヘル山有。下ノ村、カヘルト云。未ノ刻、ツルガニ着。先、気比へ参詣シテ宿カル。
『曽良随行日記』 |

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昭和32年(1957年)4月28日、金子兜太は気比神社で芭蕉句碑を見ている。 |
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川上季石氏等のまねきで敦賀にゆく。藤原七兎と一緒。ゴールデン・ウィークの始まりとて汽車は混む。 公民館で講演。約四十分。俳句と人間との結びつき方について喋る。それから句会。季題の有無が中心になる。この程度の段階。皆な熱心。 芭蕉句碑を気比神社に見る。曇天。一帯の焼け跡に再建された神社で、荒れている。「涙しくや」の句。食後、川上氏の前の小学校で句会。なかなか佳作あり。水準案外高い。
『金子兜太戦後俳句日記』 |
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真蹟短冊は白崎琴路から喜多村芝石、その子の作太郎を経て川上季石氏の所蔵となったそうだ。 |

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片雲の風にさそわれて元禄2年3月27日江戸深川の草庵を立った芭蕉は日々旅を栖として敦賀に杖を止めたのは、その年の8月14日夕刻である。 芭蕉はまず待宵のここ氣比神宮に詣で月下の社頭で二代遊行上人砂持ちの古例を知り深く感じて「なみだしくや遊行のもてる砂の露」と詠み、更に推敲を重ねて 月清し遊行のもてる砂の上 芭蕉 となし「おくのほそ道』に」この句をとゞめた。 この由緒深い神域にこの度日本芸術院会員富永直樹氏の創作になる芭蕉像の建立を見たことは、この地に相応しい盛事であり、俳諧の誠を伝えて意義が深い。 仰ぎ見る芭蕉像には長途の漂泊の果てに得た安らぎの姿をとらえて余すところがない。 なお台座正面の芭蕉の句は敦賀市新道野の西村家秘蔵の素龍本「おくのほそ道」の原本より書体を写した。 |
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月清し 遊行の もてる 砂の上 |


| 国々の八景更に氣比の月 |
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| 月清し遊行のもてる砂の上 |
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| ふるき名の角鹿や恋し秋の月 |
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| 月いつく鐘は沈る海の底 |
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| 名月や北国日和定なき |

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月を殊のほか愛した芭蕉は、元禄2年奥の細道の旅で敦賀を中秋観月の名所と定めてこの地に来り、月の絶唱とも言うべき名吟に遊んだ。 碑の句は、その代表的な敦賀での作品であり、それぞれ敦賀の歴史風土景観のゆたかさを詠んでいる。 これらの他につるがでは次のような月の句をもみる。 |
| 中山や越路も月ハまだ命 |
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| 月のみか雨に相撲もなかりけり |
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| 衣着て小貝拾ハんいろの月 |

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元禄13年(1700年)、雲鈴は氣比神宮に参詣している。 |
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気比明神に詣づ。此地も、先師、福井のすきものを、 つれ来り給ふときくに、更に昔のしたはれ侍るに、福 寺を尋ねる。是は風雅のつてにて侍るを、主の女房に 短冊をのぞまれて、 春雨に鶯色の言葉かな |
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明和2年(1765年)、蓑笠庵梨一は氣比神宮に参詣している。 |
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敦賀に到り、道つれの僧と別れて、気比の宮に詣す。社前に白砂を敷わたしたるは、奥の細道に見えたる、遊行のもてる砂ならんかし、中門に木履を多く置たるを人に問に、参詣のともからはきものの穢をははかり、此木履をはきかへて神前へ参るとそ。いと殊勝の事に覚え侍りて、 神垣や木履も匂ふ草の露 |
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明治42年(1909年)10月16日、河東碧梧桐は気比神宮に詣でた。 |
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午後の汽車で福井を出発した。古蛄同行してこの地に着き、車を列ねて気比神宮に詣で、金が崎城址に上って、沖の漁火を見ながら、往昔を語った。熊谷迫。 |
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昭和2年(1927年)10月、小杉未醒は「奥の細道」を歩いて、氣比神宮に参詣している。 |
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敦賀彎の朝晴れに、先づ氣比の神宮に參つて、波止場に出て昨夜頼んで置いた石油發動船の釜の燒くるを待つ、右手の丘の直ちに海に臨めるは、南朝のあはれを留めた金が崎の古城、 |
| 昭和32年(1957年)10月4日、高浜虚子は氣比神宮に参詣した。 |
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取敢ず氣比神宮に參詣することにした。 大鳥居が二つ、稍々間を隔てゝ立つてをつた。今はそれが殘つてをる氣比神宮の僅かの俤に過ぎなかつた。境内は廣々としてその一隅に假りの宮が建てられてをつたが、悉く大東亞戦争の兵火に燒けてしまつた。その廃墟を取り圍んでをる神の森は尊く紅葉し初めてゐた。各新聞社のカメラマンは我等三人をその大鳥居の下に立たしめて寫眞を撮つた。 |
| 尊さや氣比の宮原粧へり | 虚子 |
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| 秋天に氣比の鳥居の高さかな | 同 |
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昭和44年(1969年)6月、中村草田男は氣比神宮を訪れている。 |
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敦賀市、気比神社にて。同社は遊行上人と縁故ふかき場所なり。 六月や砂で嘴拭く宮雀
『大虚鳥』 |
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昭和45年(1970年)4月27日、高野素十は氣比神宮を訪れている。 |
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同二十七日 敦賀より気比宮、いろが浜に到る 気比の宮 一本の宮の桜の散り了り 御宮の苗代寒の畏しや
『芹』 |
| 昭和48年(1973年)8月、加藤楸邨は氣比神宮を訪れた。 |
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気比の明神 雨にゐて月明の樹を思ひをり
『吹越』 |
