『奥の細道』北 陸


〜常宮神社〜

北陸自動車道敦賀ICから敦賀市常宮の常宮神社へ。


常宮神社は延喜式内社

 元禄2年(1689年)8月10日(陽暦9月23日)、曽良は色ヶ浜の本隆寺から船で常宮を訪れ、常宮神社に参詣している。

十日 快晴。朝、浜出、詠ム。日連(蓮)ノ御影堂ヲ見ル。巳刻、便船有テ、上宮趣、二リ。コレヨリツルガヘモ二リ。ナン所。帰ニ西福寺へ寄、見ル。申ノ中刻、ツルガヘ帰ル。

『曽良随行日記』

常宮神社参道の鳥居左手に芭蕉の句碑があった。


月清し遊行のもてる砂の上

出典は『奥の細道』。

 元禄2年(1689年)8月14日(陽暦9月27日)、敦賀の氣比神宮で詠まれた句。

風化していて、ほとんど読めなかった。

 寛延2年(1749年)、幾暁は常宮神社を訪ねている。

   常宮にまふでゝ

鐘青し誘ふあらしも一つ色


 明和2年(1765年)、蓑笠庵梨一は船で常宮を訪れている。

 次の日も又此主人にあるしせられ、誰かれと共に船に掉して常宮の桜見にまかる。海上一里はかり、けふは空よく晴て、野坂山先高く聳へ、それにつらなり、あるひはひとり峙ちたるも各一手際つつ春色を備へたり。磯の詠めは是にかはりて、木々の青みを水面にそそくかと思へは、又大小の岩壁みな底を望み、ここにさし出たるは弁財天を崇め、かしこにほからか成は不動尊を安置す。宮庭には白砂皎々として、是を常宮砂といふ。遊行のもてるものは、いまし此所の砂なりと云り。道を設けて石の鳥居あり、海上に掛出したる神楽殿あり、八乙女の鈴の声玲瓏として心なきうろくすも、おのつから灯に寄なんけしき、坊社十はかりおのおの宴閣をしつらひ、庭のやり水きよらか、石を立て島となし、魚をはなちて酔をすすむ。見こしの山は高けれとも作り木に軒端を餝り、客まつ風情の世わたりなから夏をむねとの涼しさもしるへし。宮のまはりはなへて桜花の咲みだれて、木陰の白砂に照そふけしき、実に銀世界に入かと疑ふ。此宮居に短冊納めよと人々のすゝめけれは、

   浜砂や桜もませて朝きよめ

 其帰るさ一夜の松原にて、

   ひとよひとよ月は缺るを松の華


 明治42年(1909年)10月17日、河東碧梧桐は本隆寺から船で常宮神社に参詣している。

 船を常宮に着けて、常宮神社に参った。この地は神功皇后の三韓征服当時最初の根拠地であったともいう。豊臣秀吉も朝鮮に事を挙ぐる時、先ず当社に祈誓を籠め、師果てて後龍頭の梵鐘一口を報賽したという。その梵鐘は当社宝物の一に数えられすでに国宝に編入されておる。


 昭和32年(1957年)10月5日、高浜虚子は常宮神社を訪れている。

 常宮、そこには神功皇后が祀つてある。この常宮の祭では神輿を載せた船が仲哀天皇を祀つた氣比神宮に御幸する行事があるさうである。三韓征伐にはこの浦に御駐輿になつたとの言ひ傳へがある。千百年前の新羅の釣鐘がある。國寶であつて天女昇天の像が刻んである。

「敦賀行」

 昭和45年(1970年)4月27日、高野素十は常宮神社で芭蕉の短冊を見ている。

   常の宮に芭蕉の短冊 「仲秋の夜は敦賀に泊りて、雨降りければ 月い
   づく鐘は沈める海のそこ 芭蕉」あり

こゝも亦奥の細道月の浜

『芹』

本隆寺へ。

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