旅のあれこれ ・ 文 学
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久保猪之吉ゆかりの地

 明治7年(1874年)12月26日、久保猪之吉は旧二本松藩士久保常保の子として生まれる。

 明治33年(1900年)、東京帝国大学医科大学を卒業。

 明治36年(1903年)、ドイツへ留学。

 明治40年(1907年)、久保猪之吉帰国。福岡医科大学教授となる。

 明治45年(1912年)、長塚節は喉頭結核を患い、久保猪之吉博士のもとで治療を続けたが、大正4年(1915年)、その甲斐もなく37歳で亡くなった。

 大正7年(1918年)、倉田百三は病気療養に久保猪之吉博士を頼り、家族と来福。金龍寺境内にある「貝原益軒堂」に1年余寄宿した。

 大正9年(1920年)8月12日、斎藤茂吉は雲仙で久保猪之吉博士の診療を受ける。

      八月十二日。久保(猪之吉)博士予を診察したまふ。また夫人
      より菓子を贈らる

ジユネーヴのアスカナシイの業績を語りたまひて和(のど)に日は暮る

この山に君は來りて昆蟲の卵あつむと聞くが親しき

わが病診(み)たまひしかど朗らにていませばか吾の心は和(な)ぎぬ


 大正10年(1921年)3月17日、斎藤茂吉は長崎から東京へ向かう途中で久保教授を訪れている。

春さむしとおもはぬ部屋に長崎の御堂の話長塚節の話


 大正11年(1922年)3月24日、高浜虚子は久保博士を訪ねた。

 久保博士の門に入つて車を下りると丁度拐童君が來る。其處で六人が應接間で久保夫人の歓待を受ける。間もなく竹下しづの女さんも見える。久保博士も歸つて來られる。其處で主客九人が食堂で午餐の御馳走に預る。一昨日皇后陛下の九州大學の行啓になつた時の話、昨日攝津に御乘艦になつた時の海上の荒れた話などがある。猫が二三匹入つて來る。より江夫人が其一匹を抱き上げて頬擦をして、食物を與へたりする。午餐がすんで田原夫人が見える。より江夫人の俳句を見る。


 昭和2年(1927年)、山口誓子は福岡に吉岡禅寺洞、久保猪之吉を訪ねる。

 昭和14年(1939年)11月12日、64歳で没。青山墓地に埋葬される。

久保猪之吉の像

青山霊園(東京都港区)

久保猪之吉先生の像

九州大学病院(福岡県福岡市)

「九州ホテル」

雲仙温泉(長崎県雲仙市)

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