2022年福 岡

櫓山荘公園〜杉田久女〜
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鹿児島本線黒崎駅


九州工大前下車。

大正11年(1922年)3月25日、高浜虚子は櫓山荘で句会。

三月二十五日。朝、峰青嵐来る。携へ来つた鳴雪筆、舞妓の画に讃す。午後十一時、中原海岸の橋本氏別荘へ至り俳句会。

兼題「落椿」席題「潮干狩」中より。

 潮干潟人現はれて佇めり

 浜松の梢越しなる潮干狩

 谷水のさそひ下るや落椿

 落椿投げて暖炉の火の上に

後山に上つて展望。

 玄海の白波も見え日永かな

 春の日の船を離れて煙かな


少し寒かつたと見えて壁に切つた暖炉に火を焚いてゐました。椿を私は山から切つてきて暖炉の上に刺しておきましたが、落ちましたのでそれを暖炉にくべますと、先生は直ぐ、

   落椿投げて暖炉の火の上に

と詠はれました。私は、俳句とはきれいなはかないものが詠えるなアと思ひました。それから勧められて俳句を作るやうになり、先生に見ていただいてをりました。

「虚子先生の思ひ出」(昭和34年)

北九州市小倉北区中井浜に櫓山荘公園がある。


楊貴妃桜と杉田久女

 近代女性俳句の源流と評価されている櫓山荘ゆかりの俳人杉田久女は、花を詠んだ秀句を多く残している。

 花の中でも久女は桜を好んだ。その桜の中でも特に好んだのは、ここに植わる豪華な咲き振りの楊貴妃桜であった。その楊貴妃桜を詠んだ句の中でも特筆されるのが、「風に落つ楊貴妃桜房のまゝ」である。

 櫓山荘公園は春ともなれば、ソメイヨシノに続き、この楊貴妃桜も咲き、桜と俳句の公園として、地域の方ばかりでなく、多くの市民に親しまれている。

 楊貴妃桜は、この櫓山荘公園のほか、「花衣ぬぐやまつはる紐いろいろ」の句碑のある小倉北区の堺町公園と、「風に落つ楊貴妃桜房のまゝ」の句が詠まれた八幡東区高見の「高見倶楽部」近くの高見中央公園にも植えられ、毎年、春には八重咲きの豪華な花を咲かせている。

季節外れの公園に人はいない。

櫓山荘跡


谺して山ほとゝぎすほしいまゝ
   久 女

乳母車夏の怒涛によこむきに
   多佳子

平成15年(2003年)10月、建立。

 櫓山荘は、大正9年(1920年)、この地に橋本豊次郎多佳子夫妻の新居として建築された。詩人の野口雨情、作曲家中山晋平、童話作家久留島武彦、俳人の高浜虚子ら著名人が訪れ、地元の北九州を代表する文化サロンとしての役割を果たした。

 豊次郎は、童話作家の阿南哲朗らとともに児童文化の振興に努め、櫓山荘で林間学校を開くなど北九州の児童文化の礎を築いた。また、多佳子は、ここ櫓山荘での句会で高浜虚子と杉田久女に出会い、俳句の道に入った。

 櫓山荘ゆかりの久女と多佳子は、近代女性俳句の源流と評価される偉業を成し遂げ、俳句史に不滅の地位を確立した。

 ここに、これらの足跡を記念し、顕彰する碑を建立する。

櫓山荘跡


 かつて、小倉藩の堺鼻見張番所櫓があったというこの櫓山に大正9年(1920年)、大阪の実業家橋本豊治郎(1888〜1937)が自ら設計して建てた洋風の住宅「櫓山荘」がありました。広い敷地には庭園やテニスコートがあり、丘の上には回遊式の庭園や野外ステージもありました。

 夫人は、戦後の女性俳人の第一人者といわれる橋本多佳子(1899〜1963)です。

 大正11年(1922年)、俳壇の大御所高浜虚子(1874〜1959)一行が長崎からの帰途、同荘での虚子歓迎句会に立ち寄りました。

 多佳子はこの句会で、虚子門下の花形女流俳人で小倉在住の杉田久女(1890〜1946)を初めて知り、その後、久女から櫓山荘で句作指導を受けることになりました。

 昭和4年(1929年)、豊治郎の父の死去により橋本家は大阪の帝塚山に転居しました。

 豊治郎は広い知識を持った文化人で、里見ク、久米正雄、宇野浩二など多くの著名人や文化人が櫓山荘を訪れ、櫓山荘は北九州の文化サロンとなっていました。また、夫妻は児童芸術運動などさまざまな文化的な運動を援助しています。

 大阪転居後も、櫓山荘は別荘として使用されていましたが、昭和14年(1939年)、橋本家の手を離れました。

  「裏門の石段しづむ秋の潮」(昭和3年)

  「ひぐらしや絨毯青く山に住む」(昭和10年)

  「炉によみて夫(つま)の古椅子ゆるる椅子」(昭和14年)

 これらは、橋本多佳子が櫓山荘を詠んだ句です。

北九州市教育委員会

 昭和4年(1929年)11月、大阪中の島の中央公会堂で催された『ホトトギス』400号記念俳句大会で橋本多佳子は杉田久女に山口誓子を紹介される。

 昭和10年(1935年)1月、橋本多佳子は山口誓子に師事。

 昭和21年(1946年)1月、橋本多佳子は櫓山荘を訪れ、杉田久女の死を知る。

 昭和33年(1956年)5月、橋本多佳子は山口誓子と鎌倉の高浜虚子を訪ねる。

 昭和34年(1959年)4月8日、高浜虚子没。

 その日先生は、ご機嫌がよく、昔話をいろいろとして下さつた。私が、九州の家へ初めて先生をお迎へしたとき、先生が作られて、落椿の句が、私の俳句へ入る動機になつたことを申上げると、先生はすぐ、書棚から「年代順虚子句集」を取出させ、それが大正十一年三月二十五日であること、句は、

   落椿投げて暖炉の火の上に

であることを調べて下さつた。

虚子先生(「天狼」昭和34年4月)

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