明治23年(1890年)、松本市(宮渕)出身の赤堀廉蔵の三女として鹿児島市で生まれる。本名杉田ひさ。 明治42年(1909年)、福岡県立旧制小倉中学教諭杉田宇内と結婚し小倉に移住。 大正9年(1920年)8月、父の埋骨式のために松本を訪れる。 大正10年(1921年)9月、江津湖畔に中村汀女を訪ねる。 大正10年(1921年)11月13日、甲宗八幡宮で「天の川」門司支社句会。 大正11年(1922年)3月18日、高浜虚子は九州に向かう途中で門司へ。 |
三月十八日。白川来著。午後三時四十五分門司へ向ふ。 福岡の禅寺洞来る。鹿郎の案内にて共に商船会社の小蒸気に乗じ 小門の春潮に浮ぶ。門司基督教青年会館に於て俳句会。杉田久女、 峰青嵐来会。 |
それから二三人の選んだ句のうちに、 春潮に流るゝ藻あり矢の如し 久女 といふ句があつた。これは「矢の如し」が面白いと思ふ。「春潮に流るゝ藻あり」とは極めて一直線に敍してあつて、其の次に「矢の如し」といふ形容詞が來てゐる爲に、其の春潮に流るゝ藻の状態が明瞭に想像される。これは私の見落した句である。 |
大正11年(1922年)3月25日、高浜虚子は櫓山荘で句会。 大正13年(1924年)10月2日、門司倶楽部で高浜虚子の歓迎会。 |
十月二日。門司倶楽部に於ける歓迎会に出席。会者百余名。筑紫郎、 木母寺、駄王、寸七翁、田々子、草餅、春夜人、禅寺洞、より得、 橙黄子、拐童、方舟、感来、奄美人、燦生、木半夏、久女、桃源 洞等。 |
大正14年(1925年)5月24日、松山市公会堂で高浜虚子歓迎俳句大会。 昭和4年(1929年)11月、大阪中の島の中央公会堂で催された『ホトトギス』400号記念俳句大会で橋本多佳子は杉田久女に山口誓子を紹介される。 昭和6年(1931年)、「谺して山ほとゝぎすほしいまゝ」が大阪毎日東京日日新聞社主催の日本新名勝俳句の募集で選者高浜虚子の最優秀句20句に選ばれ風景院賞になった。 昭和7年(1932年)、ホトトギス雑詠の巻頭を飾る。 昭和11年(1936年)10月、日野草城、吉岡禅寺洞とともに「ホトトギス」同人を除名される。 昭和20年(1945年)、栄養障害を起こし、福岡県立筑紫保養院に入院。 昭和21年(1946年)1月21日、死去。享年55歳。 |
杉田久女様御逝去を知る。小倉在住当時俳句 の手ほどきを受ける。毎日のやうに櫓山荘を 訪づれられしを想ひ 春潮に指をぬらして人弔ふ
『信濃』 |
昭和27年(1952年)、『久女句集』刊。 |