寛永19年(1642年)、それまで市中に散在していた遊女屋が一ヶ所に集められ、官許の遊里として丸山町、寄合町が形成された。引田屋もこの頃の創立といわれる。花月は、文政元年(1818年)頃にこの引田屋の庭園内につくられた茶屋の名称であり、長崎奉行の巡視の際には、休憩所となった。 この地は、向井去来や太田蜀山人、頼山陽といった文人墨客や、多くの志士などが訪れたことが知られ、また、端唄春雨もここで生まれた。 明治12年(1879年)の丸山の大火で花月は類焼したが、花月の名称は、引田屋の建物の一部に移され、庭園、建物とともに料亭「花月」として継承されている。
長崎市教育委員会 |
大正11年(1922年)3月20日、高浜虚子は「花月」を訪れている。 |
長崎に入つて如何にも南國らしい暖かさを覺えたのは一夜ぎりであつて、今朝から非常な寒さを覺える。宿から著物を取りよせて重ね著る。こんな事は此地には珍しい事であるさうな。三時過に晝餐のを終つて一同再び丸山の花月に行く。此處で鶴の枕、山陽の書、去來の書、同じく文臺等を見て女將の懇篤な導きの下に裏の庭園までも見る。 |
大正14年(1925年)11月、斎藤茂吉は長崎に赴いた。 |
丸山の夜のとほりを素通りし花月のまへにわれは佇む
『ともしび』 |
昭和2年(1927年)、山口誓子は「花月」を訪れている。 |
長崎丸山の花月へは、昭和二年に来たことがある。通された部屋に大きな屏風が立っていた。屏風には甲比丹(カピタン)の遊興が描いてあった。甲比丹は長崎在留のオランダ商館長だ。 そこでシッポク料理を食べた。 三十何年振りに花月に来て見ると、花月の前が広くなったようで、いすずの大型のバスが二台駐車している。佐世保から客を運んで来て、夜の史蹟見学をするバスらしい。 花月は鉄筋コンクリートの拡張工事中だった。入って、庭を歩き、庭の見える二階の広間に通り、前に甲比丹遊興の屏風を見た部屋にも行って見た。昔のままだった。私を歓待して、酔うて紅くなった田中彦影の顔が蘇って来た。
『句碑をたずねて』(四国・九州路) |
昭和27年(1952年)5月23日、水原秋桜子は「花月」を訪れている。 |
丸山、花月にて 三句 高杉晋作写し絵あせぬ夏のれん 噴水や元青楼の鯉の水 絃歌湧く一間は葭戸灯りけり
『残鐘』 |
昭和30年(1955年)5月18日、花月で句会。高浜虚子は去来の句碑を見ている。 |
五月十八日。長崎の警察本部長、夏目義明東道。雲仙越。ゴルフ場休憩。小濱通過。 長崎、桃太郎泊り。丸山、花月にて句會。立子出席。遅れて出席。一昨年、去來二百五十年祭の時、病氣不參の詫び。市長より記念品。丸山といふは昔遊里の地。去來の句碑あり。 稲妻やどのけいせいとかりまくら 去來 |
辞して門を出ると、柵で囲うて、去来の句碑が立っている。御影石の角柱。 いなづまやどのけいせいとかりまくら 元禄十一年、去来は、長崎へ最後の帰郷をした。そのとき「後麿山賦」を書いた。 近い山寺に月詣でをする長崎の遊女達が「はかなき世をちぎりわびて、もろともに苔の下になどといのりおもへらん人も有べし」などと書いている。そして いなづまやどの傾城とかりまくら の句を添えている。 句碑は、去来の二百五十年祭のあった昭和二十八年に建立された。
『句碑をたずねて』(四国・九州路) |
さそはれて茂吉とともに登樓す妓樓花月の奥の間の酒
「『形影抄』以後」 |