謡曲「接待」は、佐藤継信・忠信の遺族を中心とする忠孝の至情を描いた曲である。 継信・忠信の母が山伏接待にことよせて落ち行く義経一行を待ち受けていると、さあらぬ態でここ館(寺)に立ち寄った主従12人を迎えた。 初めは義経一行であることを隠したてていた弁慶も、母尼に見破られて名乗り合い、義経の身代わりとなって戦死した兄弟の武勇を語り聞かせた。 一昨年医王寺に立ち寄った時は芭蕉の句碑を見ただけで立ち去ったが、今日は瑠璃光殿(宝物殿)を見る。 |
正岡子規も『はて知らずの記』に「醫王寺といふ寺に義経辨慶の太刀笈などを藏すといふ。」と書いている。 |
源義経着用直垂(ひたたれ)断片と弁慶所用笈はあったが、義経の太刀がない。 |
医王寺を訪れた芭蕉は本堂に入らず、佐藤基治夫妻とその子継信・忠信兄弟の墓所を訪れる。 |
佐藤庄司ノ寺有。寺ノ門ヘ不入。西ノ方ヘ行。堂有。堂ノ後ノ方ニ庄司夫婦ノ石塔有。堂ノ北ノワキニ兄弟ノ石塔有。
『曽良随行日記』 |
信夫荘司佐藤基治公一族の暮域の西端にあって樹齢数百年つぼみが色づけば落ち一輪も花と咲かず悲史母情を知るつばき |
「黙翁」の本名は沼田史雄。明治40年1月26日、福島県伊達郡に生まれる。曹洞宗大本山永年寺奏慧昭禅師より得度。摺上山神社他11社宮司。泰東書道院展院友で、工芸部に第1回より終戦まで直刀彫竹杖連続入選。昭和天皇を始め、多くの著名人に杖を製作。 医王寺「咲かずの椿」句碑の他、全国各地に句碑建立。平泉中尊寺千手観音堂本尊仏拝刻(観音院)、全国各地に一葉観音様建立。小林栄述「野口英世の思い出」執筆、「姉の語る野口英世の生立」出版。1987年7月7日、没。 |
元禄9年(1696年)、天野桃隣は医王寺を訪れている。 |
一里行、左の方径より左葉野と云所、二里分入、瑠璃光山医王寺。宝物品々有、中に義経の笈、弁慶手跡大般若アリ。 |
享保元年(1716年)5月6日、稲津祇空は常盤潭北と奥羽行脚の途上医王寺を訪れている。 |
もとの渡しへ帰り、瀬の上より西の一里半行、鯖野村医王寺にいたる。佐藤次信・忠信石塔有。義経の笈、弁慶か大般若経一巻、庄司か棺上の鉄燕、矢の根、品々開帳して拝みぬ。 |
名将の汗もかうはし笈の鈷 |
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実桜はせめてにつよき泪かな | 北 |
元文3年(1738年)4月、山崎北華は『奥の細道』の足跡をたどり、醫王寺を訪ねた。 |
是よりさば野といふに到る。醫王寺といふあり。佐藤庄司の菩提所なり。義經の笈。辨慶が書寫の經。佐藤尼の書寫抔(など)あり。佐藤父子の印は。高九尺ばかり。幅三尺許づゝの石なり。文字見えず。 |
延享4年(1747年)、武藤白尼は横田柳几と陸奥を行脚し、医王寺を訪ねている。 |
佐場野の里医王寺をたつね判官殿のむかしをとふて宝物を拝むに安宅の関の有さまそまつ思はるゝ |
爰にまた笈さがさはや土用干 | 白尼 |
寛延4年(1751年)、和知風光は『宗祇戻』の旅で医王寺を訪れた。 |
次信忠信の墓は伊達の郡鯖野の里有医王寺ニ両子の武勇如金剛喩草木迄モ赤キハ悪カラメト思ヒヤリテ |
モミヂ(※「木」+「色」)する木々もや塚のにくからむ |
宝暦2年(1752年)、白井鳥酔は医王寺を訪ねている。 |
○しのふの里なる佐藤庄司か城跡を尋ぬ醫王蜜院に杖を引て刹裡に建る所の兄弟か遺碑を見る誠に矢しまの次信吉野の忠信を感して 殘る名に跡さきはなし花紅葉 |
明和元年(1764年)、内山逸峰は医王寺で弁慶の遺品を見ている。 |
同く近きあたりに佐橋村といふ有。そこに瑠璃光山医王寺とて真言宗の寺あり。外に薬師堂有。佐藤庄司が守本尊也、弁慶が手跡の金(紺)紙金泥の大般若経一巻、并に笈も有。 |
寛政3年(1791年)6月1日、鶴田卓池は医王寺を訪れている。 |
壱り十一丁藤田 壱り七丁桑折 鯖野村医王寺 什物義経ノ笈太刀弁慶ガ太刀アリ 鯖野村ニ佐藤庄司カ館ノあとアリ 南殿ノさくらと云アリ 古木也
『奥羽記行』(自筆稿本) |
寛政12年(1800年)8月21日、松平定信は医王寺を訪ねた。 |
このあたりに醫王寺とて佐藤氏の墓ある寺あり。我領にあらねども、けふはひる過る頃より我村々ありく道の行手なれば、立よりてかの忠義の二士の碑見んことを計りしなり。門へいれば右ひだり木立も茂りたり。雨さへもふりければ、露うち拂ひつゝ、しばらく行に、いとゞ老木立ならびたる中に、おほくの石碑あり。皆佐藤の一族也とぞ。中にも大なる碑二つたてり。これぞかの二士の碑といふをききて、 ふみ分て昔しをとへば夕時雨つゆけき苔に跡ぞ見へける |
をとつひより心地例ならねば終に醫王寺にも行かず。 |
昭和2年(1927年)10月、小杉未醒は「奥の細道」を歩いて、医王寺を訪れた。 |
飯坂から福島の方へ、電車路を少し行つて、右へ折れると、朝風の吹き通る赤松林、村になつて、行き留まつた處に、瑠璃光山醫王寺、處は信夫郡平野村、山門を入つて右に庫裏本堂、すぐに行つて大杉林の下に古い墓共、字はすべて剥落して見えず、正面に大いなるを佐藤勝信の墓とし、右に二つ並びたるを子供の嗣信忠信の墓とする。 |
昭和11年(1936年)、長谷川かな女は医王寺へ。 |
繼信兄弟の墓 兄弟の墓に梅雨入りの山河あり
第二歌集『雨月』 |
昭和27年(1952年)3月、阿波野青畝は医王寺を訪ねた。 |
雪の上杉の実落ちぬとぶらはむ
『紅葉の賀』 |
まんさくの咲く自然をさぐりたくなって東北の長旅に発った。はじめて飯坂の湯に泊り、近くの医王寺をたずねた。ここらは桑畑といわれても桑が見えないくらいふかい根雪であった。 門をはいるとまっすぐに墓へとたどり歩く。老杉が暗いのに雪明りが際立って白い。風に揺られて黒い実がころりと雪の上に落ちた。墓は義経に殉じた佐藤継信、忠信兄弟とその一族などが並んでいる。ぼろぼろに墓石は欠けて哀れを催す。兄弟の郷里みちのくにはまたみちのく独特といえる哀愁のただようことを面白く感銘したのである。元禄の昔、芭蕉も端午のころこの寺に立寄って句を遺している。 |
昭和43年(1968年)、水原秋桜子は医王寺を訪れている。 |
福島、医王寺 卯の花や判官主従のこす笈 佐藤嗣信、忠信用鎧 卯の花やみちのくぶりの大鐙
『殉教』 |