「広々とした那須野のこととてどこを道ともさだめがたい。はるかに秣を負うて帰る草刈男が見えるが、それを目じるしとして道を辿って行くことだ」の意。
秣負う人を枝折とするというのは、道のわからぬたよりない不安もあるが、それだけではなく、そう感ずることに自ら興じているものとして味わう方がおもしろかろう。「馬草刈る」の形だと一か所に止っている感じだが、「秣負ふ」だと動いていることになり、一層距離感も出るようである。
『蕉翁文集』(『蕉翁句集』に上五「馬草刈る」とある旨注記)・『芭蕉句選』にも右前文とともに収める。『陸奥鵆』(元禄十年跋・桃隣編)・『曾良書留』(「奈須余瀬、翠桃を尋ねて」と前書)・『雪丸げ』(「奈須余瀬桃亭を尋ねて」と前書)に歌仙として掲出。『菅菰抄』付録(「『奈須黒羽桃翆(ママ)亭を尋ねて』、一本には『那須野にて』とあり」、と前書)・『乞食嚢』には第三までを収める。脇は「青き覆盆子をこぼす椎の葉―翠桃」。句は『泊船集』(「詞書略之」と前書)、『蕉門録』(晋流所持真蹟により掲出)・『芭蕉桃青翁御正伝記』にも収める。『赤冊子草稿』・『蕉翁句集』(「那須にて」と前書)には上五を「馬草刈る」とし、前者に「此の句、『奥の細道』になし。猿雖方へ松島旅よりの文通に、『那須にて人をとぶらふ』と書きて此の句有り。かの『細道』に云へる羽黒(ママ)の館代浄法寺何某の事か」と注記がある。「馬草刈る」が初案、「秣負ふ」が決定稿であろう。『奥の細道』の旅での作。『随行日記』によれば、翠桃訪問は四月三日。
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元禄9年(1696年)、天野桃隣は玉藻稲荷神社を参詣し、句を奉納している。
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玉藻の社 稲荷社、此所那須の篠原、犬追ものゝ跡有、館より一里許行。
○法楽 木の下やくらがり照す山椿
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享保元年(1716年)4月26日、稲津祇空は常盤潭北と奥羽行脚の途上玉藻稲荷神社を訪れている。
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玉藻前の旧跡、稲荷の社、杉たちさひ、詣する人も見えす。拝殿にしれる誹子の奉納の句をとゝむ。一むかしを思ひて又書つく。
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夏山にはなつひかりや青幣
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端山かな茂みの絵馬なつかしき
| 北
夏山にはなつひかりや青幣
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大正14年(1925年)7月7日、荻原井泉水は玉藻稲荷神社を訪ねている。
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行くほどに、野の中に立派な桜の並木があった。それが篠原神社、すなわち玉藻稲荷だった。もっとも、その社は野火に焼けて、今はこの並木と石の鳥居と、その右手に鏡池という美しく澄んだ池が残っているだけなのである。
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塩の湯温泉へ。
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