『奥の細道』
秣おふ人を枝折の夏野哉
鹿子畑翠桃邸跡から玉藻稲荷神社へ。
玉藻稲荷神社
玉藻稲荷神社は「玉藻の前」の神霊を祭る神社。
「玉藻の前」は絶世の美女に姿を変えて悪事を尽したという伝説の妖狐「九尾の狐」のこと。
建久4年(1193年)、源頼朝が那須野に狩に訪れたとき、玉藻稲荷大明神を祭ったと伝えられる。
『吾妻鏡』によると、那須野で巻狩が行われたのは、建久4年(1193年)4月2日〜23日までの22日間となっている。
4月2日 戊戌
那須野を覧玉ひ、去る夜の半更以後に勢子を入る。小山左衛門の尉朝政・宇都宮左衛門の尉朝綱・八田右衛門の尉知家、各々召しに依つて千人の勢子を献ずと。那須の太郎光助駄餉を奉ると。
4月23日 己未
那須野等の御狩り、漸く事終わるの間、藍澤の屋形また駿河の国に運び還すべきの由と。
鏡が池
三浦介義明が九尾の狐を追跡中、姿を見失ってしまったが、この池のほとりに立ってあたりを見まわしたところ、池の面近くに延びた桜の木に蝉の姿に化けている狐の正体がうつったので、三浦介は難なく九尾の狐を狩ったと伝えられ、これが鏡が池と呼ばれるようになったと書いてある。
源実朝の歌碑がある。
武士(もののふ)の矢並みつくろふ籠手(こて)の上(え)に霰たばしる那須の篠原
『金槐集』に収録されている歌である。
応仁2年(1468年)、宗祇は那須野を訪れ、実朝に思いを馳せている。
枯れたる中より篠の葉のうちなびきて、露しげきなどぞ、右府の詠歌思ひ出でられて、少し哀れなる心地し侍る。しかはあれど、かなしき事のみ多く侍るを、おもひかへして、
歎かじよ此の世は誰れもうき旅と思ひなす野の露にまかせて
芭蕉の句碑もある。
秣おふ人を枝折の夏野哉
元禄2年(1689年)4月、翠桃亭で巻かれた歌仙の発句である。
奈須余瀬、翠桃亭を尋て
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秣おふ人を枝折の夏野かな
| ばせを
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青き覆盆子(いちご)をこぼす椎の葉
| 翠桃
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陸奥にくだらむとして、下野国まで旅立けるに、那須の黒羽と云所に、翠桃何某住けるを尋て、深き野を分入る程、道もまがふばかり草ふかければ、
『蕉翁句集』(土芳編)には「馬草苅人を枝折の夏野哉」とある。
同年4月12日(新暦5月30日)、芭蕉は玉藻稲荷神社を訪れた。
元禄9年(1696年)、天野桃隣は玉藻稲荷神社を参詣し、句を奉納している。
玉藻の社 稲荷社、此所那須の篠原、犬追ものゝ跡有、館より一里許行。
○法楽 木の下やくらがり照す山椿
享保元年(1716年)4月26日、稲津祇空は常盤潭北と奥羽行脚の途上玉藻稲荷神社を訪れている。
玉藻前の旧跡、稲荷の社、杉たちさひ、詣する人も見えす。拝殿にしれる誹子の奉納の句をとゝむ。一むかしを思ひて又書つく。
夏山にはなつひかりや青幣
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端山かな茂みの絵馬なつかしき
| 北
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大正14年(1925年)7月7日、荻原井泉水は玉藻稲荷神社を訪ねている。
行くほどに、野の中に立派な桜の並木があった。それが篠原神社、すなわち玉藻稲荷だった。もっとも、その社は野火に焼けて、今はこの並木と石の鳥居と、その右手に鏡池という美しく澄んだ池が残っているだけなのである。
塩の湯温泉へ。
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