源頼朝ゆかりの地



『吾妻鏡』

 52巻(巻45欠)。治承4年(1180年)源頼政の挙兵から文永3年(1266年)までの87年間を日記体で記す。

治承4年(1180年)

 8月17日 丁酉 快晴 三島社の神事なり。籐九郎盛長奉幣の御使いとして社参す。

 8月23日 癸卯 陰、夜に入り甚雨抜くが如し

 今日寅の刻、武衛、北條殿父子・盛長・茂光・實平以下三百騎を相率い、相模の国石橋山に陣し給ふ。この間件の令旨を以て、御旗の横上に付けらる。

 8月28日 戊申

 武衛は土肥眞名鶴崎より乗船し、安房の国の方に赴き給ふ。實平土肥の住人貞恒に仰せ、小舟を粧ふと。この所より、土肥の彌太郎遠平を以て御使ひと為し、御台所の御方に進せらる。別離以後の愁緒を申せらると。

 8月29日 己酉

 武衛實平を相具し、扁舟に棹さし安房の国平北郡猟島に着かしめ給ふ。北條殿以下人々之を拝迎す。数日の欝念一時に散開すと。

 9月29日 戊寅

 従い奉る所の軍兵、当参二万七千余騎なり。甲斐の国の源氏、並びに常陸・下野・上野等の国の輩これに参加せば、仮令五万騎に及ぶべしと。而るに江戸の太郎重長景親に與せしむに依って、今に不参の間、試みに昨日御書を遣わさると雖も、猶追討宜しかるべきの趣沙汰有り。中四郎惟重を葛西の三郎清重が許に遣わさる。大井要害を見るべきの由、偽って重長を誘引せしめ、討ち進らすべきの旨仰せらるる所なり。

 10月2日 辛巳

 武衛、常胤・廣常等が舟楫に相乗り、大井・隅田の両河を渡る。精兵三万余騎に及び、武蔵の国に赴く。豊島権の守清元・葛西の三郎清重等最前に参上す。また足立右馬の允遠元、兼日命を受けるに依って、御迎えの為参向すと。

養和2年(1182年)

 4月5日 乙巳

 これ高尾の文覺上人、武衛の御願を祈らんが為、大弁才天をこの島に勧請し奉る。供養法を始行するの間、故に以て監臨せしめ給ふ。密かにこの事を議す。鎮守府将軍藤原秀衡を調伏せんが為なりと。今日即ち鳥居を立てらる。

 4月24日 甲子

 鶴岳若宮の邊の水田(弦巻田と號す)三町余り、耕作の儀を停められ、池に改めらる。専光・景義等之を奉行す。

壽永3年(1184年)

 1月10日 庚子

 伊豫の守義仲征夷大将軍を兼ると。

元暦2年(1185年)

 2月21日 乙亥

 平家讃岐の国志度の道場に籠もる。廷尉八十騎の兵を引きい、彼の所に追い到る。平氏の家人田内左衛門の尉廷尉に帰伏す。また河野の四郎通信、三十艘の兵船を粧い参加す。義経主すでに阿波の国に渡る。熊野の別当湛増源氏に合力せんが為同じく渡るの由、今日洛中に風聞すと。

 3月24日 丁未

 長門の国赤間関壇浦の海上に於いて、源平相逢う。各々三町を隔て、舟船を漕ぎ向かう。平家五百余艘を三手に分け、山峨の兵籐次秀遠並びに松浦党等を以て大将軍と為し、源氏の将帥に挑戦す。午の刻に及び平氏終に敗傾す。二品禅尼宝劔を持ち、按察の局は先帝(春秋八歳)を抱き奉り、共に以て海底に没す。建禮門院(藤重の御衣)入水し御うの処、渡部党源五馬の允、熊手を以てこれを取り奉る。按察大納言の局同じく存命す。但し先帝終に浮かばしめ御わず。

文治2年(1186年)

 8月16日 庚寅

 午の刻西行上人退出す。頻りに抑留すと雖も、敢えてこれに拘らず。二品銀作の猫を以て贈物に宛てらる。上人これを拝領しながら、門外に於いて放遊の嬰児に與うと。これ重源上人の約諾を請け、東大寺料の砂金を勧進せんが為奥州に赴く。この便路を以て鶴岡に巡礼すと。陸奥の守秀衡入道は、上人の一族なり。

文治5年(1189年)

 4月2日 戊戌

 那須野を覧玉ひ、去る夜の半更以後に勢子を入る。小山左衛門の尉朝政・宇都宮左衛門の尉朝綱・八田右衛門の尉知家、各々召しに依つて千人の勢子を献ずと。那須の太郎光助駄餉を奉ると。

 閏4月30日 己未

 今日陸奥の国に於いて、泰衡源與州を襲う。これ且つは勅定に任せ、且つは二品の仰せに依ってなり。豫州民部少輔基成朝臣の衣河の館に在り。泰衡の従兵数百騎、その所に馳せ至り合戦す。與州の家人等相防ぐと雖も、悉く以て敗績す。與州持仏堂に入り、先ず妻(二十二歳)子(女子四歳)を害し、次いで自殺すと。

 5月22日 辛巳

 申の刻、奥州の飛脚参着す。申して云く、去る月晦日、民部少輔の館に於いて與州を誅す。その頸送り進す所なりと。則ち事の由を奏達せられんが為、飛脚を京都に進せらる。御消息に曰く、

 去る閏四月晦日、前の民部少輔基成の宿館(奥州)に於いて、義経を誅しをはんぬるの由、泰衡申し送り候所なり。この事に依って、来月九日の塔供養延引せしむべく候。この趣を以て洩れ達せしめ給うべし。頼朝恐々謹言。

 7月25日 癸未

 二品下野の国古多橋の駅に着御す。先ず宇都宮に御奉幣御立願有り。今度無為に征伐せしめば、生虜一人神職に挙ぐべしと。則ち御上箭を奉らしめ給う。その後御宿に入御す。

建久元年(1190年)

 10月13日 甲午

 遠江の国菊河の宿に於いて、佐々木の三郎盛綱小刀を鮭の楚割(折敷に居ゆ)に相副え、子息小童を以て御宿に送り進す。申して云く、只今これを削り食せしむの処、気味頗る懇切なり。早く聞こし食すべきかと。殊に御自愛す。彼の折敷に御自筆を染められて曰く、

   待えたる人の情もすはやりのわりなくみゆる心さしかな

 10月18日 己亥

 橋本の駅に於いて遊女等群参す。繁多の贈物有りと。これに先だち御連歌有り。

   橋もとの君にはなにかわたすへき

     たヽそまかはのくれてすぎはや   平景時

 10月27日 戊申

 御潔斎。熱田社に奉幣せしめ給う。当社は外戚の祖神たるに依って、殊に中心の崇敬を致さると。

建久3年(1192年)

 5月8日 己卯

 法皇四十九日の御佛事、南御堂に於いてこれを修せらる。

建久4年(1193年)

 4月2日 戊戌

 那須野を覧玉い、去る夜の半更以後に勢子を入る。小山左衛門の尉朝政・宇都宮左衛門の尉朝綱・八田右衛門の尉知家、各々召しに依って千人の勢子を献ずと。那須の太 郎光助駄餉を奉ると。

 4月23日 己未

 那須野等の御狩り、漸く事終わるの間、藍澤の屋形また駿河の国に運び還すべきの由と。

 5月28日 癸巳 小雨降る、日中以後霽

 子の刻に、故伊東の次郎祐親法師が孫子曽我の十郎祐成・同五郎時致、富士野の神野の御旅館に推参致し、工藤左衛門の尉祐経を殺戮す。

 7月29日 丁亥

 白河の關を越えたまふ。關の明神に御奉幣。この間景季を召し、當時初秋の候なり。能因法師が古風思ひ出さざるやの由仰せ出さる。景季馬を扣て、一首を詠ず。

   秋風に草木の露を拂はせて君が越ゆれば關守も無し

建長3年(1251年)

 3月6日 丙寅

 武蔵の国浅草寺、牛の如き者忽然と出現し寺に奔走す。時に寺僧五十口ばかり食堂の間集会なり。件の恠異(けい)を見て、二十四人立ち所に病痾を受け、起居進退居風を成さずと。七人即座に死すと。

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