俳 人

多少庵秋瓜
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 江戸の人。鈴木氏。佐久間柳居の門人。初め連溪庵止弦と号した。別号吐華、松籟庵。安永から寛政にかけて江戸で活躍。多少庵は江戸六庵の一つとも称された。

『二鳥賦』(刊年不明)に「東叡山下多少庵南窓止絃述」とある。

 延享5年(1748年)5月30日、佐久間柳居は63歳で没。柳居没後は松籟庵秋瓜に従う。

 宝暦9年(1759年)、松籟庵秋瓜は深川に移る。太無と改める。

 安永3年(1774年)10月22日、太無没。

 安永8年(1779年)5月14日、小澤芝六没。秋瓜は追悼文を書いている。

 安永9年(1780年)4月12日、蝶夢は秋瓜を訪ねている。

大我和尚の愛蓮庵を尋ね、上野の東叡山を拝みめぐり、此山下にかくれすみける秋瓜が庵をとひて、昌平橋をわたり、旅宿に帰る。


 寛政5年(1793年)10月12日、芭蕉の百回忌で芭蕉の句碑を建立。多少庵秋瓜筆。

碑の裏には多少庵秋瓜の句が刻まれているようだ。


百年の木に手の届く柳かな

 行田市の大長寺にある「古池塚」、羽生市の古城天満宮にある「蓬莱塚」は多少庵秋瓜書。

「古池塚」
   
「蓬莱塚」

   


 羽生市北1丁目の薬師堂にある芭蕉の句碑も多少庵秋瓜の書といわれているそうだ。

晩年、無為尚入を称する。

寛政11年(1799年)9月6日、没。

台東区下谷の正洞院に墓がある。


 寛政12年(1800年)秋、多少庵秋瓜一周忌追善に門人一陽舎花英は句碑建立。

羽生市の上町地蔵尊の多少庵秋瓜の句碑


名月やはしめて高き秋の空   秋瓜居士

秋瓜の句

先にある物にして行凉みかな


宮守の顔ににかみや初しくれ


ころころと坂を散たる椿かな


下掃て置直しけり萩の花


青柳や細き所に春の色


藁葺に雨の音聞ばせをかな


木の形のまことは丸き柳哉


椎の木の下にあかるき椿かな


から鮭も暦も黒しふるはしら


藤さくや棚の上には花の屑


寒梅や手廻し過て春を見す


こがらしや牧からひとつはなれ馬


青柳や細き所に春の色


揚簀戸のひとり下りたり雪の暮


日は遙麓の松や山さくら


竹椽に一節高しかたつぶり


行水の除て通る芦の角


梅咲や今に式部の墓詣


   試筆

  雨なかりせハとあけし境にハあらて
  田家の物寿なるを楽しひ軒の旭に起出て

去年ことし間の栞戸開けり

   年尾

  老の身の年浪に立交るへくもあらて
  巨燵の旧を出て墨水の辺を逍遥するに
  家にひとしき人に道連て

年おしむ人に逢いけり隅田川

『寛政四年歳旦集』

あるとある景の限りやけふの月


明治29年(1896年)11月、野口雪蓑は多少庵七世を継ぐ。

明治33年(1900年)8月、秋瓜の百回忌に『玉兎集』序。

明治34年(1901年)10月1日、雪蓑は68歳で没。

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