海原を八十島がくり |
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来ぬれども |
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奈良の都は忘れかねつも |
この短歌は「雑歌」に属している。西国へ赴任する防人の一行が、灘波津を船出して潮と風にまかせた船旅を続け、因島の東海岸に沿い布刈瀬戸を抜け、糸崎へ仮泊のとき、来し方を振り返り、奈良の都へ望郷の思いをはせる。 |
きぬぎぬや |
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かすむ迄見る |
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妹が家 |
この句は30歳過ぎ西国巡歴の際、尾道から島伝いに四国へ渡った折の作。因島辺りの旅情か。 |
短夜や |
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うそと知りつつ |
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聞く話 |
小山内薫のもとで雑誌の編集。独学で大衆小説界へ進出、久保田万太郎に師事。<風流深川唄>で第一回直木賞を受賞(1935)、のち<愛染かつら>を発表、映画化で一世を風靡する。人情を主とする劇作家として、新派に関係<鶴八鶴次郎>を書く。映画、演劇、小説と各方面に活躍。この句は、文芸活動の傍取材に因島を訪れた折り、島の旅情は忽ちメロドラマとなる。 |
暗夜行路 |
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船は島と島との間を縫って |
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進んだ。島々の傾斜地に |
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作られた麦畑が一ト畑 |
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毎に濃い緑、淡い緑と、 |
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はっきりくぎりをつけて雲 |
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った空の下にビロードの |
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ように滑らかに美しく |
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眺められた。 |
主人公時任謙作が四国への船旅で因島沖を通り過ぎるとき長閑な島の風情をみての心境を確かな筆致で表した。 |
東光調の軽妙な筆により、住職や檀徒のやり取りを、いわゆる<河内もの>として発表し続け、一時期を画す。他に作品として<悪名><お吟さま><春泥尼>等がある。この詩は<悪名>執筆中取材のため因島を訪れた時、一代の女傑麻生イトを追想し、眼下に展開する西に芸予諸島、東に燧灘の景観を流雲に託し称える。 |
知己のいる因島へは数次訪れている。この書<竜馬がゆく>を執筆中の頃のもの。因島讃歌。 |
薬師寺の大伽藍を再建改修する。白鳳の心を昭和の心にと発願、日本全土に般若心経の写経を勧進。金堂の再建建立から始まり、東塔の改修、更に西塔の再建建立の偉業を完遂、<心><道>等の著書がある。この言は、薬師寺金堂再建の勧進に因島を訪れた際、色紙に認め 若い世代に贈られる。刻石は自ら心を開く。 |
岩角より |
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のぞくかなしき |
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海の隅に |
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あはれ舟人 |
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ちさき帆をあぐ |
大正2年(1913年)5月、若山牧水は故郷を離れ上京途中、岩城島の三浦敏夫方に滞在。 |
伊豫の今治(いまはる)から尾の道がよひの小さな汽船に乘つて、一時間ほども來たかとおもふ頃、船は岩城島(いはきじま)といふ小さな島に寄つた。港ともいふべき船着場も島相應の小さなものであつたが、それでも帆前船の三艘か五艘、その中に休んでゐた。そして艀(はしけ)から上つた石垣の上にも多少の人だかりがあつた。
『樹木とその葉』(島三題) |
大本山總持寺僧堂に入衆。師父英文師は因島(中庄)の檀家から出家入門。常随説法の巡錫一代の高僧。英文師は住職世代に入り、師父を追い長福寺の住職5年。 |
天 |
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どの辺からが天であるか |
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鳶の飛んでいる辺は天であるか |
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人の眼から隠れて |
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ここに |
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静かに熟れて行く果実がある |
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おお その果実の周囲は |
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すでに天に属している |
詩<天>は、<愛情列島>執筆のために取材に因島を訪れた際、天につながる此の急坂で創作する。今なお、島の天には詩心がある。 |
酔うて |
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もたれて正月の屏風 |
全国を遊歴し、その足跡は因島にも及ぶ。即興句の一つか。 |
海を見て |
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島を見て |
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只呆然と |
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魚のごとく |
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あそびたき願ひ |
行商の両親と流転。尾道に移住し、工場で夜勤などをして、大正7年尾道高女を卒業。後東京に出る。 因島には特別な縁があり、<放浪記>でその辺の事情を知る。 |
僧侶で明治の高官。因島中庄町に生まれ、成願寺で出家した。この書は生まれ故郷を賛歌した。 |
この浦にわれなくば |
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誰かきかん |
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この夕この海この魚 |
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この浦にわれなくば |
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誰かみん |
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この朝この艸のかげ |
<詩と詩論>同人。昭和の新詩運動に参加<四季>を創刊。第一詩集<測量船>で詩壇の地位を確固。厳正な感触を融合させた詩風を樹立。和歌的情緒、漢詩的雰囲気、今様の調べと定着し、昭和の代表的詩人。全詩業に芸術院賞。伝統的詠嘆調の詩集<一点鐘>の、この詩を支えた因島の詩情は、当時から変わることなく、確かな島育ちの心根として伝わる。 |
尾道市向島町に生れる。幼児因島(三庄)へ移り住む。戦前は豪快をもって知られていたが、大局観にのっとった悠悠たる棋風に変わる。 |
囲碁十訣 |
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貪れば勝を得ず |
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界に入りては宜しく緩なるべし |
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彼を攻むるには我を顧みよ |
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子を捨てて先を争ふ |
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小を捨てて大に就け |
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危に逢えば須らく棄つべし |
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謹んで軽速なる勿れ |
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動かば須らく相応すべし |
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彼強ければ自ら保て |
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勢孤なれば和を取る |
幼名は桑原虎次郎。幼時囲碁を母カメに学び、碁客竹原宝泉寺住職葆真和尚に師事。神童の誉れ。9才三原城主浅野氏の招きで江戸へ出て、官賜碁所本因坊丈和の弟子となる。名を秀策と改め15才で四段となる。研鑽を重ねて後、遂に古今無双の名人十五世本因坊となる。碁百局<敲玉餘韵>御は著名。刻石<囲碁十訣>は秀策の書。囲碁のみでなく広く処世の訓と云える。 |
源平の |
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弓鳴聞ゆ |
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むらしぐれ |
この句は、終戦後間もなく<八幡船>の取材に因島を訪れた際、村上水軍が日本史のロマン源平の時代から、常に歴史の潮流の転換に、先駆して勲をたてたことを偲んで詠む。 |
船工場 |
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ある島なれば |
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夕潮に |
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異國の船も |
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船かがりせり |
標高207m。紀元2600年事業として昭和15年に土生町民の奉仕によって整備された。昭和29年に因島公園保勝会を設立し、その整備につとめ、昭和32年には 瀬戸内海国立公園特別地域に指定され、現在因島観光協会が管理している。 園内には約500本の桜のほか、国民宿舎・遊歩道・展望台・遊具・記念碑等があり、山頂のテレビ塔には眺望案内板があります。 |