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国道20号(甲州街道)酒折宮入口からJR中央本線の踏切を越えると、酒折宮がある。 |

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酒折宮ノ旧趾ニシテ上代公廳ノ在リシ地ナリ景行天皇ノ四十年皇子日本武尊東夷ヲ平定還路此處ニ駐車シ「にひばりつくば」ノ歌を詠マセ給フ國史ニ歴然タル古蹟ナリ社アリテ尊ノ靈ヲ祀レリ此地享保年中勅許甲斐八景ノ一酒折夜雨ノ名所トナル 冷泉爲綱ノ歌ニ くれぬ間の嵐はたえて酒折に枕かる夜の雨になるおと |



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明和8年(1771年)、辻嵐外は越前敦賀に生まれる。久村暁台、高桑闌更、五味可都里に師事。 |
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ここ酒折の宮は、古代、日本武尊が東国の蝦夷を征伐しての帰途、立ち寄った伝承地として有名です。 尊が、酒折宮に着いたとき、 「新治、筑波を過ぎて、幾夜か寝つる」と、歌われました。筑波から甲斐の国に来るまでいく晩寝ただろうか、と歌で問いかけられたのです。その時、そばにいた御火焼(みひたき)の翁がそれを受けて、「かがなべて、夜には九夜、日には十日を」と歌いあげました。尊はこれをたいそうお誉めになり、東の国造の位をさずけたということです。この話は、「古事記」や「日本書紀」に書かれていて、後に連歌の発祥の地として全国に知られるようになりました。
甲府市・甲府市教育委員会 |

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景行天皇の皇子日本武尊は蝦夷制服の帰途、「日本書紀」によれば常陸を経て甲斐国に入り、此処酒折の宮にしばらく居られた。 着宮の夜、皇子が歌をもって 新治 筑波を過ぎて 幾夜か寝つる と問われたのに対し、秉燭人(ひともしびと)が かがなべて 夜には九夜 日には十日を と唱和した故事は有名である。 後世、連歌を「筑波の道」と呼ぶのもこれによるもので、歌体は片歌ながら連歌の濫觴(らんしょう)とされており、当地を訪れた文人墨客が多かった。
小野成三奉納 |
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貞亨3年(1686年)、大淀三千風は酒折宮を訪れた。 |
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○當所酒折天神は連歌の濫觴なり。徃古日本武尊東夷征伐の時の行宮なり。無言抄の序に、新治筑波の詞よりおこれりと云々。尊の御句に、 ○新治筑波を出てき(ママ)夜かぬる。甲府の連宿一萬句奉納、その發句を金板に寫し、巻頭の句をして小序をつけて書と所望せられ、ぜひなくかき侍りし。其發句、序は略。 |
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明和2年(1765年)秋、加藤暁台は酒折宮を訪れている。 |
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其余にも巨勢大納言の画は、頼朝公の賜のよし。今千歳の家名をかたぶけず、国にめで度誉なりけり。酒折の神社は甲府の東はつかに去て、山の辺にたゝせ給ふ。こは日頃まうで侍る我国熱田のおほん神と一躰におはしませば、羈旅のうへたももともぬるゝばかち、猶有がたう覚えてぬさ奉る。 |
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小墾田のをはりの初穂かくもあれ |
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安永5年(1776年)春、加舎白雄は「甲峡紀行」の旅で酒折宮を訪れた。 |
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酒折宮 御火焼(みひたき)のわかきはなんと梅が元
加舎白雄「甲峡紀行」 |
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天明8年(1788年)3月13日、蝶夢は江戸へ下る途中で酒折宮を訪れている。 |
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東の方にのぞめば、酒折の宮。其むかし 日本武尊、征蝦夷而後、此(処に)居給ふとかや。尊、のたまひけるは、「ニイバリツクバヲイデゝ、イクヨカネツル」。火焼の老仁、次句、「ヨニハ九ヨ、ヒニハ十カヲ」とありし、是を連歌のはじめとかや。 |
| 我旅も幾夜か寐つる春の夢 | 蝶夢 |
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| 言の葉の花は幾代か咲かへて | 木姿 |
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文化3年(1806年)6月26日、菜窓菜英は酒折宮に詣でた。 |
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程なく、酒折の宮へまうて奉り、奉納吟、 ○微驅産所を出しより此地名に到る事十日、 即、九夜を過る、あらはゞかりの尊ふ(と)さよと 事書を打ち消して 、 日や月や清水結ぶ手結ぶ指 短尺へものして神官の人に頼む。しはらく 風談、酒折の碑の石摺をたまふ。 |
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天保11年(1840年)、田川鳳郎は北陸行脚の酒折宮を訪れている。 |
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酒折宮 苗取て夜には幾夜ぞ稲の露 |
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昭和8年(1933年)10月22日、与謝野寛・晶子夫妻は酒折宮を訪れているようだ。 |
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今の世の翁の我れも歌をもて事仕へばや酒折の宮 酒折の仮宮寂し赤松の木立まばらに秋の日の散る 夜は二夜日は甲斐に三日酒折に今來て仰ぐいにしへの山
「いぬあじさゐ」 |
