嵐外は江戸後期の俳人、明和8年(1771年)越前の国敦賀に生まれ、幼名を利三郎といい通称を政輔といった。京都に上り、はじめ五六と号して闌更の門に入り、後に嵐外と称した。 寛政7年(1795年)25才の時、藤田(若草町)の同門可都里をたよって、甲斐に入り、以後50年句作、吟詠を専らにして、75才の生涯を甲斐で終えた。 この間、本町東落合の楽庵や西落合の北亭に居住すること32年、この地域の俳諧結社、安楽林社と深く交わり俳諧文化の振興に大きな影響を与えた。また、落合を拠点に甲斐一円、遠くは信州、江戸に旅吟、高雅に富む俳風は天下にその名声を博した。 晩年、落合から甲府柳町に移り住むこと5年、弘化2年(1845年)3月26日弟子達に見守られる中で他界した。 安楽林社の社中らは、嵐外の余徳を後世に伝えんと成妙寺の苑に分骨して墓碑を建立し、供養の赤誠をささげた。 時に弘化2年初冬26日の事であった。法号を日哉と言う。 境内に次の句碑がある。 笹の葉や今に鶯としよらず |