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高燈籠(常燈明台)は明治4年(1871年)靖國神社(当時は招魂社)の燈籠として設置された。 方位盤や風見が付けられ、いわゆる擬洋風建築の印象を醸した燈籠で、高さは16.8m。小林清親が描いた錦絵に、設置当初の高燈籠が登場している。 九段坂の上に設置されたため、品川沖を出入りする船の目印として、東京湾からも臨むことができ、灯台の役目も果たした。 かつて九段坂は急坂であり、いくつかの段が築かれていたが、関東大震災の帝都復興計画により勾配を緩やかにする改修工事が行われた。高燈籠は、当初は靖国通りをはさんで反対側に立てられていたが、この改修工事に伴い、大正14年(1925年)に現在地に移転した。
千代田区 |

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品川弥二郎は天保14年(1843年)、長州藩に生まれた。 15歳の時、吉田松陰の松下村塾に入門。練兵館で剣術を学んだ後、長州藩士として、高杉晋作らと尊皇捜夷運動、戊辰戦争で活躍した。 明治政府設立後、明治3年(1870年)、ロンドン、ドイツ等の欧州に留まり、次第に政治や経済に注目するようになった。 帰国後、内務省、農商務省、宮内省に勤め、明治24年(1891年)に内務大臣となるなど、政治家として要職を歴任した。また、学校や信用組合や産業組合などの成立に関わった。 |

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品川弥二郎像は、明治40年(1907年)に設置された。品川弥次郎は、現在の九段北に存在した練兵館で剣術を学んでおり、練兵館に近い九段坂公園に像が設置された。監督は高村光雲※、原型作者は本山白雲、鋳造者は平塚駒次郎。 ※高村光雲:彫刻家。文久3年(1863年)仏師である高村東雲のもとで木彫を学んだ。木彫に写実主義を取り入れ、山崎朝雲、平櫛田中など後進の育成にも尽力した。代表作は「老猿」「楠木正成像」「西郷隆盛像」など。
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大山巖は天保13年(1842年)の生まれで薩摩藩出身。従兄弟である西郷従道(西郷隆盛の弟)は、盟友関係にあった。 薩英戦争での近代的な軍備に影響され、江川太郎左衛門のもとで砲術を習得した。 日清戦争では第2軍司令官、 日露戦争では満州軍総司令官を務めた。 東郷平八郎と対を成して「陸の大山、海の東郷」と称された。 その後参謀総長、内務大臣を勤め元老となった。 |

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大山巌像は、大正8年(1919年)に現在の国会前庭に設置された。銅像は軍服を着た騎乗姿で、原型作者は新海竹太郎。近代の軍人像の中では、数少ない乗馬像の一つ。 昭和23年(1948年)、GHQにより一時撤去され、東京都美術館に預けられた後、昭和44年(1969年)に現在地に移転した。 |
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元帥陸軍大将、従一位大勲位功一級公爵の大山厳は、天保13年(1842年)10月10日に鹿児島県において生まれる。日清・日露の両大戦後に従い大正5年(1916年)12月10日、東京において薨かる。
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天保13年(1842年)10月10日、大山巌は鹿児島県に生まれる。 嘉永5年(1852年)閏2月25日、児玉源太郎は現在の山口県周南市に生まれる。 慶応4年(1868年)2月10日、新海竹太郎は現在の山形県山形市に生まれる。 明治16年(1883年)11月8日、大山巌と山川捨松との婚儀が行われた。 明治39年(1906年)7月23日、児玉源太郎没。 大正4年(1915年)、台湾博物館に児玉源太郎像設置。 大正5年(1916年)12月10日、大山厳没。 大正8年(1919年)、現在の国会前庭に大山巌像設置。 昭和2年(1927年)3月12日、新海竹太郎死去。 昭和44年(1969年)、大山巌像は現在地に移転。 平成23年(2011年)7月、周南市の児玉公園に児玉源太郎像建立。 |
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古くは飯田坂と呼ばれていました。名前の由来は、坂に沿って御用屋敷の長屋が九つの段に沿って建っていたためとも、急坂であったため九つの段が築かれていたからともいわれています。明治後期、九段坂から市ヶ谷方面に市電を通すため、牛ヶ淵(北の丸公園に沿った堀)側の勾配を削って線路を敷設しました。 関東大震災後の帝都復興都市計画で坂を大幅に削り緩やかな勾配にする工事が行われ、九段坂は大正通り(現在の靖国通り)として東京の主要な幹線道路の一部となり現在に至ります。 |
