嘉永4年(1851年)、有栖川宮熾仁親王は17歳の時に孝明天皇の妹和宮親子内親王と婚約。
公武合体運動により皇女和宮(1846〜1877)は十四代将軍家茂(1846〜1866)に降嫁するため、文久元年(1861年)10月20日に京都を出て、11月15日に江戸に着く。
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通常、16日前後かかったと言われている。
赤坂宿〜10月25日〜

(岐阜県大垣市)
加納宿〜10月26日〜

(岐阜県岐阜市)
鵜沼宿〜10月27日〜

(岐阜県各務原市)
太田宿〜10月27日〜

(岐阜県美濃加茂市)
下諏訪宿〜11月5日〜

(長野県諏訪郡下諏訪町)
和田宿〜11月6日〜

(長野県小県郡長和町)
茂田井宿〜11月7日〜

(長野県佐久市)
八幡宿〜11月7日〜

(長野県佐久市)
相生の松〜11月7日

(長野県佐久市)
羽根石〜11月9日〜

(群馬県安中市)
坂本宿〜11月9日〜

(群馬県安中市)
旧板鼻宿本陣書院〜11月10日〜

(群馬県安中市)
本庄宿〜11月11日〜

(埼玉県本庄市)
熊谷宿〜11月12日〜

(埼玉県熊谷市)
桶川宿〜11月13日〜

(埼玉県桶川市)
板橋宿〜11月14日〜

(東京都板橋区)
文久3年(1863年)3月4日、徳川家茂は朝廷の攘夷実施の求めに応じて上洛。
惜しまじな君と民のためならば身は武蔵野の露と消ゆとも
慶応2年(1866年)7月20日、徳川家茂薨去。
明治10年(1877年)9月2日、和宮死去、享年32。
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