2016年熊 本

夏目漱石旧居〜ジェーンズ邸〜
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熊本市中央区水前寺に夏目漱石旧居(第3の家)がある。


昨年は月曜日で休館だった。

夏目漱石旧居(第3の家)

 もともとは、現在の新屋敷1丁目(旧大江村)にあったものを昭和47年この地に移築保存されました。

 漱石が第五高等学校教授として熊本に住んでいたのは、明治29年4月〜33年7月までの4年3ヶ月間で、この第3の旧居には明治39年9月〜31年3月までの7ヶ月を過ごしていました。しかし、家主の落合氏が帰熊したため、やむなく井川淵に転居しました。漱石はこの第3の家から「草枕」の素材となった小天旅行に出かけています。

 現在、熊本で漱石が住んだ5番目の家「内坪井の家」は夏目漱石記念館として保存、公開されています。

「草枕」

 明治39年9月に「新小説」に発表された中編小説。「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ」の書き出しで有名な、漱石39歳の時の作品。

熊本市

夏目漱石の漢詩


  菜花黄     菜花黄
   明治31年3月
菜花黄朝暾   菜花 朝暾に黄に
菜花黄夕陽   菜花 夕陽に黄なり
菜花黄裏人   菜花 黄裏の人
晨昏喜欲狂   晨昏 喜びて狂わんと欲す
曠懐随雲雀   曠懐 雲雀に随い
沖融入彼蒼   沖融 彼の蒼に入る
縹緲近天都   縹渺として 天都に近く
迢逓凌塵郷   迢逓として 塵郷を凌ぐ
斯心不可道   斯の心 道う可からず
厥楽自コウ洋   厥の楽しみ 自らコウ洋たり
恨未化為鳥   恨むらくは 未だ化して鳥と為り
啼尽菜花黄   菜花の黄を啼き尽くさざるを

(「コウ」=サンズイに「黄」)

菜花黄

 「菜花黄」は、漱石在熊の明治31年の作で、五言古詩の漢詩である。この作品には、朝日や夕日を浴びて黄金色に輝く菜の花の美しさと、その上空で激しく鳴き尽くす雲雀のさえずりに心奪われる詩情が詠まれている。

 明治39年に発表された「草枕」でも、雲雀と菜の花は、第一章の重要な景物として描かれている。

 春は眠くなる。猫は鼠を捕ることを忘れ、人間は借金のある事を忘れる。時には自分の魂の居所さえ忘れて正体なくなる。ただ菜の花を遠く望んだときに眼がさめる。雲雀の声を聞いたときに魂のありかが判然する。雲雀の鳴くのは口で鳴くのではない、魂全体が鳴くのだ。魂の活動が声にあらわれたもののうちで、あれほど元気のあるものはない。ああ愉快だ。こう思って、こう愉快になるのが詩である。

   夏目漱石来熊100年記念事業
      ,96くまもと漱石博推進100人委員会設置
1996年12月

今年は「夏目漱石来熊120年」、没後100年に当たる。

熊本における夏目漱石

明治29年(1896年)4月13日、夏目漱石(当時29歳)は松山中学校から第五高等学校の英語教師として熊本に来ました。

上熊本駅(当時池田停車場)に降り立った漱石は、人力車に乗って新坂から熊本市内へ向かいました。その途中、眼下に広がる市街地の美しい景色に思わず感嘆し「熊本は森の都だ」と言ったと伝えられています。

熊本時代の漱石は、英語教師にとどまらず俳句をたくさん詠み、指導者として五高生たちと近代俳句の会「紫瞑吟社」を結成し、熊本の俳壇に新風を吹き込みました。あわせて、この時期、漱石の人間観・人生観は深まりました。そして名作「草枕」「二百十日」「三四郎」などの作品が生まれました。

 夏目漱石旧居(第3の家)は、熊本市8つの記念館で唯一被害をまぬがれたそうだ。

内部を無料公開していた。

「則天去私」の掛軸


鏡子夫人は「思ひ出」の中でこの住居について「来てみますとここは大層景色のいいところで家の前は一面の畑、この先が見渡す限り桑畑が続いて森の都といわれる熊本郊外の秋の景色はまた格別でした」と記しています。

「第3旧居での漱石夫妻」の写真には、ガラス戸が無かった。

家主の落合東郭

東郭は慶応2年(1866年)11月26日、託麻郡大江村(現熊本市)に生まれました。名は為誠(ためのぶ)。東京帝国大学(現東京大学)卒業後、七高、五高の教授を経て宮内省に入り、大正天皇の侍従を務めました。

漱石は明治31年(1898年)3月、東郭がこの家に帰ることになったため、井川渕の家(第4の旧居)へと引っ越しました。昭和17年(1942年)1月19日に死去。漢詩人。

「第3旧居での落合東郭」の写真には、ガラス戸があった。

ジェーンズ邸は全壊。

昨年撮ったジェーンズ邸


熊本で最初の西洋建築で、県指定重要文化財であった。

熊本洋学校教師ジェーンズ邸

明治維新にのりおくれた細川藩は、近代化のため横井小楠の思想の流れをくむ実学党の人々を県政に採用しました。明治3年(1870年)に始まった実学党による県政は革新的政策を次々に打ち出し、そのひとつに新しい時代に即した教育施設として、西洋人教師による洋学校と医学校の創設がありました。その洋学校の教師としてアメリカから招かれたのがジェーンズがでした。ジェーンズは、英語を通して、自学自習を学習の基本とした教育を実施しました。また、班別学習・男女共学など新しい教育法により幾多の優秀な人材を世に送り出しました。

日赤記念館

明治10年(1877年)5月1日、西南戦争の折、元老院議官の佐野常民(佐賀出身)が、この館で官軍総督有栖川宮熾仁親王に「博愛社」の設立を願い出て、5月3日に正式に許可を受けました。博愛社の救護員は、すぐに戦地に急行し、敵味方の別なく救護にあたりました。この博愛社が明治20年(1887年)国際赤十字社に加盟して「日本赤十字社」となりました。

このことから、ジェーンズ邸は、ジェーンズを顕彰する記念館であるとともに、日本赤十字社の発祥の地として、「日赤記念館」となっています。

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