2024年佐 賀

駅前まちかど広場〜時代を駆け抜けた佐賀の偉人達〜
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佐賀市駅前中央1丁目に駅前まちかど広場がある。


18682018
肥前さが幕末維新博覧会

 佐賀県では、明治維新150年を記念して、平成30年(2018年)3月17日から平成31年(2019年)1月14日にかけて佐賀市城内エリアを中心に「肥前さが幕末維新博覧会」を開催した。

平成31年(2019年)5月1日、令和に改元。

SPOT1 名君・鍋島直正と直正を支えた賢人たち


古賀穀堂・鍋島直正・鍋島茂義

鍋島直正 1814−1871

佐賀藩10代藩主。天保元年(1830年)、17歳(満15歳)の若さで家督を継ぎ、藩政改革を推進。古賀穀堂の意見を取り入れ、藩校「弘道館」で大胆な教育改革を推進。また重臣との協力体制の構築に力を注ぎ、鍋島茂義などを重用して西洋の科学技術を積極的に導入した。人材の育成と適材適所への配置により佐賀藩を雄藩へと躍進させた。

SPOT2 弘道館で学んだ若き日の賢人たち


大隈重信 1838年−1922年


現在の佐賀市水ヶ江生まれ。弘化元年(1844年)に藩校「弘道館」に入学。慶応3年(1867年)、佐賀藩が長崎に設置した英学塾「蕃学稽古所」(後に致遠館と改称)で副島種臣らとアメリカ人教師フルベッキに学ぶとともに、塾生の指導にも当たる。明治政府では、大蔵卿、外務大臣などを歴任、鉄道の敷設、貨幣制度の整備、太陽暦(グレゴリオ暦)の採用を行い、東京専門学校(後の早稲田大学)を創立した。明治31年(1898年)と大正3年(1914年)に総理大臣となり内閣を組織した。

副島種臣 1828−1905


現在の佐賀市鬼丸町生まれ。枝吉神陽の実弟。天保5年(1834年)に藩校「弘道館」に入学し、嘉永元年(1848年)に首班を務める。慶応3年(1867年)に佐賀藩が長崎に設置した英学塾「蕃学稽古所」(後に致遠館と改称)で大隈重信らと学び、また塾生の指導にも当たった。明治政府では、外務卿として日本初の国際裁判となった明治5年(1872年)のマリア・ルス号事件で手腕を発揮し、「正義の人」として国際的な評価を得た。中林梧竹と並び明治期を代表する書家としても知られる。

SPOT3 弘道館で学んだ若き日の賢人たち


枝吉神陽・佐野常民・島義勇

枝吉神陽 1822−1862

現在の佐賀市鬼丸町生まれ。藩校「弘道館」で学び、才能が認められて、弘化元年(1844年)に江戸の学問所「昌平黌」へ遊学。帰郷後は、弘道館で教鞭をとった。嘉永元年(1850年)、弘道館の改革推進派を集めて「義祭同盟」を結成。尊王思想を説き、実弟の副島種臣をはじめ、大隈重信や江藤新平、島義勇(よしたけ)、大木喬任(たかとう)など、明治政府で活躍する佐賀出身の人材に影響を与えた。

佐野常民(つねたみ) 1822−1902

現在の佐賀市川副町早津江生まれ。天保5年(1834年)から藩校「弘道館」で学び、のち江戸、京都、大坂に遊学して幅広い学識を得た。嘉永6年(1853年)に「佐賀藩精煉方」(理化学研究所)の主任となり、さらに日本初の実用蒸気船「凌風丸」の建造に関わった。慶応3年(1867年)、佐賀藩が出展したパリ万国博覧会へ使節団代表として派遣される。西南戦争に際し、敵・味方を問わず救護する博愛社を創設し日本赤十字社の基礎を築いた。

SPOT4 弘道館で学んだ若き日の賢人たち


江藤新平 1834−1874年

現在の佐賀市鍋島町八戸生まれ。弘化2年(1845年)に藩校「弘道館」に入学、大木喬任(たかとう)らと共に学ぶ。嘉永3年(1850年)、枝吉神陽による「義祭同盟」に参加。明治5年(1872年)、明治政府の初代司法卿に就任すると、四民平等、人民主義を唱え、司法権の独立に尽力、日本の司法制度の基礎を築く。「民権」という概念がなかった当時、誰でも公平な裁判を受けられるようにした。また、学制制度や警察制度の整備にも関わった。

 明治7年(1874年)2月1日、佐賀の乱。4月13日、江藤新平は佐賀城内で死刑に処された。

知らない「賢人」も多かった。

「黙行」の像へ。

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