同所一町ばかり南、海道の右にあり。曹洞宗の禅宗にして、三田の功運寺に属す。北条相模守平時頼朝臣の開基として、大覚禅師を開山と称し、古山和尚を第二世とす。天叟慶存和尚、慶長元年丙申、当寺を再興して中興となる。(慶存和尚は松平因幡守康元の子なり。天正御入国の頃、三州より召され当寺を賜ふ。旧(いにしへ)は臨済宗なりしを、この時より今の如く洞家に改められしとなり。)
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海晏禅寺

曹洞宗の寺である。
本尊は聖観世音菩薩。
漁師の網にかかった鮫の腹の中から出てきたといわれているそうだ。
海晏寺鐘楼

鐘楼の奥に白井鳥酔の墓があった。
白井鳥酔の墓

松風も骨になつたる寒さかな
鳥酔(〜1769)は上総国埴生郡地引村に生まれた。名は信興といい、喜右衛門と称していた。生家はかなりの資産家であったが、家を譲って江戸に出て長谷部柳居に従って俳諧を学んだ。はじめ牧羊と号し、のち露柱と号した。さらに松露庵二世を嗣ぎ、南浦松原庵および大磯の鴫立庵に住した。
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「長谷部柳居」は、佐久間柳居だと思う。
鳥酔は天明俳諧の中興の先駆をなした蕉門の巨匠として名を世人に知られた。著書には「稲ふね」がある。明和6年4月4日に歿した。
東京都教育委員会 |
鳥酔居士之墓
あぢさゐのかはりはてたる思ひかな
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明和2年(1765年)、加舎白雄は松露庵烏明の門に入り、白尾坊昨烏と称した。のち鳥酔の門人となる。
安永4年(1775年)4月4日、白雄は海晏寺で鳥酔七回忌法要を営む。
天明2年(1782年)4月4日、白雄は海晏寺に鳥酔の墓参。
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四月四日鳥酔居士墓参 品浦海晏禅寺にて
子の数に涙落水うごくなつの露
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天明5年(1785年)4月4日、白雄は海晏寺で鳥酔十七回忌法要を営む。
天明8年(1788年)4月9日から1週間、白雄は海晏寺で芭蕉百回忌繰り上げ法要を行った。
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あり数のもゝとて奠る我命
| 白雄
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しとぎ席(むしろ)に匂ふ
| 春鴻
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雨のひま夏の小鳥の声もなし
| 重厚
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落花のけしに浜風のふく
| 呉水
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とりどりに檐桶かた寄て暮の月
| 柴居
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焚火に入し秋のうツ蝉
| 古慊
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椎の実の筆にも似たるかたち哉
| 三千彦
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独木槿に面をうちうち
| 括嚢
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「呉水」は常世田長翠の別号。
常世田長翠、鈴木道彦、宮本虎杖など白雄門下の主だった俳人はすべて参加した。京からは蝶夢、重厚が駆け付けた。
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品浦海晏寺
江を採て似あはし山のほとゝぎす
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寛政3年(1791年)9月13日、53歳で没す。
鳥酔の墓の傍らに加舎白雄の墓があった。
加舎白雄の墓

たちいでて芙蓉のしぼむ日に逢へり
訪れる人もないようだ。
寛政9年(1797年)9月10日、倉田葛三は海晏寺で白雄七回忌法要を営む。
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佐久間柳居は海晏寺の紅葉を詠んでいる。
海晏寺
深からぬ山を上手紅葉かな
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文化8年(1811年)9月30日、小林一茶は海晏寺の紅葉を見に行った。
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卅 陰 海安(晏)寺紅葉一見 夜小雨
『七番日記』(文化8年9月) |
海晏寺は紅葉の名所であった。
あれ見やしゃんせ海晏寺
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真間や高尾や竜田でも
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およびでないぞえ紅葉狩り
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紅葉の名所と言えば、下谷の正燈寺と品川の海晏寺。
一茶は白井鳥酔や加舎白雄の墓にも詣でたのであろうか。
文政6年(1823年)9月13日、碩布は海晏寺で白雄三十三回忌法要を行う。
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昭和16年(1941年)10月5日、高浜虚子は月見の会で海晏寺を訪れた。
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今年の月見の會は、品川の海晏寺で催すことになつた。海晏寺には嘗て一度俳句會があつた爲に行つたことがあるやうに思ふのであるが、どういふ寺であつたかもはつきり記憶にない。鮫洲で降りて人に聞くと、すぐ近くにある煉瓦塀の家が其處であつた。
(昭和16年12月『俳諧』) |
虚子は白井鳥酔や加舎白雄の墓は念頭になかったわけでもないようだ。
同日。観月句会、海晏寺。
月を待ち白雄の墓に詣りけり
新聞をほどけば月の芒かな
禅寺の境内にして良夜かな
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