俳 人
田上菊舎
『手折菊』
菊車、一字庵。加賀の千代女と並び称される代表的な女流俳人である
宝暦3年(1753年)10月14日、長門国豊浦郡田耕(たすき)村(下関市豊北町田耕)に長府藩士田上由永の長女として生まれる。
明和5年(1768年)、田耕村中河内の村田利之助に嫁ぐ。12月17日、父由永は長府印内(下関市長府印内町)に屋敷を賜って移住。
安永5年(1776年)7月9日、夫利之助没。
安永7年(1778年)9月、長府の田上家に復籍。
女流俳人菊舎尼宅址
天明元年(1781年)、長府を立ち、萩で竹奥舎其音から朝暮園傘狂宛ての添文を得て旅に出る。
天明2年(1782年)2月末、美濃国不破郡岩手(岐阜県不破郡垂井町)に朝暮園傘狂を訪ね、数日滞在。
二月の末つかた、美濃国に至り、朝暮園宗匠を初て訪し時
咲花に今届く手のたゞ嬉し
したひ来たとの誠うらゝ 傘狂
天明2年(1782年)5月末、田上菊舎は市振から親しらずへ。
東雲頃、市振へ船揚りして、問屋にしばらくやすらひ、此所より殊外難所なれば、馬にて行くなど、兼て連中もすゝめられしゆへ、親しらず、子しらず、馬返し、此日の北国一番の難所なり。
しる知らぬ人皆恋し親しらず
『笈の塵』
天明2年(1782年)年末に江戸下谷徒士町の白寿坊道元宅に着き、年を越す。
寅のとし
歳暮
世の因縁は自然なるものかな。いづくにたよらむも定めなき身の、ことしは爰に年越えよと、敲月亭の信にとゞめられ、愛児に迄も馴なじめば、其交りの一かたならぬより
旅の宿に餅花なりと手伝はん 菊車
『初日の出』
天明4年(1784年)4月25日、江戸を発ち、東海道を上る。
庚申の年、端午前より江戸を立て、
古郷の方へとおもむきぬ。
五十三次見て登る幟かな
天明6年(1786年)10月10日、田上菊舎は太宰府を訪れる。
宰府宿
とし頃願ひし詣叶ひ、ことさら今宵聖廟近きに舎り、こゝに残りし御言の葉も「都府楼纔に瓦の色を看せ観世音寺は唯鐘の声を聞と聞へさせ給ひしなど、人々の物語れる折しも、夜半を告るにも古への情頻りなるより
天明8年(1788年)4月、田上菊舎は桑名に滞在。浜の地蔵尊に詣でている。
桑府留杖のひと日、浜の地蔵尊へもふでけるが、爰に入江の風色に興じ興じ、しばらくそこの階端に佇めば、祖翁の高吟眼のあたりにうかみて、恐れおゝくもその言葉によれるの即時
汐湛え藻の花しろきことほのか
| 百茶房
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奉納地蔵尊開帳
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幾世渡す綱手や涼し御手の糸
| 菊舎
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寛政2年(1790年)3月10日、朝暮園傘狂は京都東山雙林寺で芭蕉百回忌取越法要を主催。田上菊舎も参列する。11日、大坂へ下り、12日、大坂在勤の野村信我と会う。
十一日夜舟浪花下り
此春、花洛へ忍び登りに、祖翁の遠忌おごそかにつとめてのち、越州の方へおもむくべき身ながら、今や浪花に在勤ある道元居雅士は、もとよりテイ袍(※「テイ」=「糸」+「弟」)の情深ければ、たゞ草鞋姿にまみえんと、
『首途』
寛政5年(1793年)8月25日、姨捨山、26日、善光寺に参詣。
指を折れば、天明二の昔、姨捨山上に旅寝せし頃、風雨の難をたすけられし、傳五郎といへる老の夫婦へ、折からの情を謝せんと、自画賛一葉おくるとて
捨てぬおばへよはひみせうぞ岩に菊
すむや心さらしな郡秋三月
二十六日、善光寺へ詣ふで、只有難さ身にあまりて
袖の露に光る大悲や寺の月
寛政6年(1796年)、『追善弔古々路』(菊舎編)刊。白寿坊序。
寛政11年(1799年)8月21日、菊亮没。
国かはり所へたてなから、あまたゝひ
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風交を重ね侍りし無漏庵老雅身まか
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り給ひてひとめくりの忌にあたるこ
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ろほひ、懐旧の情にたえかねしまゝ
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| 長布
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月や寂し去年の此日と聞けは猶
| 菊舎
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文化3年(1806年)3月、白寿坊は「永観堂連塔」を建立。田上菊舎は建碑式に参列。『道の花』。
文化8年(1811年)3月、田上菊舎は西本願寺の親鸞聖人五百五十回忌に参詣。
文化9年(1812年)、『手折菊』(菊舎著)刊。
文化10年(1813年)、田上菊舎は『手折菊』集を携えて永観堂に詣でる。
文政5年(1822年)、菊舎が両親からもらった手紙を埋めて「文塚」を建立。
雲となる花の父母なり春の雨
文政6年(1823年)、雲左坊は松島行脚と途上菊舎を訪ねている。
当門の古老たる一字庵雅尼を訪ひ、一
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別以来のゆかしさはさらに、互に積想
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海岳の談笑に時をうつしつゝ
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| 雲左坊
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かき起し笑へこゝろの埋み火を
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むかしなからに積る雪の夜
| 菊舎
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文政9年(1826年)8月23日、74歳で没。
徳応寺と本覚寺の二か所に墓がある。
菊舎の句
雲か雲かと来て見れは桜哉
暁の星もはらりと野梅かな
まつしまや小春ひと日ハ漕たらす
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