野口雨情ゆかりの地

年 譜

 明治15年(1882年)5月29日、茨城県多賀郡磯原村(現:北茨城市磯原町)に父量平、母てるの長男として生まれる。本名英吉。

 明治34年(1901年)4月、東京専門学校高等予科文学科(現:早稲田大学)に入学するが、1年余で中退。

 明治37年(1904年)1月、父死去。帰郷して家督を相続する。

 明治37年(1904年)11月、栃木県喜連川の高塩家の娘ひろと結婚。

 明治38年(1905年)、創作民謡集『枯草』を刊行。

 明治39年(1906年)3月、長男雅夫出生。

 明治40年(1907年)7月、新聞記者として北海道へ渡り、札幌の「北鳴新報社」入社。

 明治40年(1907年)9月23日、石川啄木は札幌で初めて野口雨情と逢う。

 明治40年(1907年)10月1日、『小樽日報』へ。

 明治40年(1907年)10月、長女みどり出生(8日後死去)。

 明治40年(1907年)10月31日、『小樽日報』退社。

 野口君遂に退社す。主筆に売られたるなり。


 明治41年(1908年)4月14日、石川啄木は小樽の開運町に野口雨情君を訪ねた。

読売新聞で野口雨情君が札幌で客死した旨を報じた。


 明治42年(1909年)11月、北海道を離れ、帰郷。上京する。

 大正3年(1914年)4月、二女美晴子出生。

 大正4年(1915年)、湯本温泉の芸妓置屋「柏屋」の女将明村まちに求婚され、長男雅夫、二女の美晴子を連れて「柏屋」に住む。

 大正4年(1915年)5月、妻ひろと協議離婚。

 大正7年(1918年)10月、水戸市銀杏坂の「対紅館」に下宿。

 大正7年(1918年)、中里つると再婚。

 大正10年(1921年)、「赤い靴」発表。

 大正11年(1922年)、鍋掛尋常高等小学校(現:鍋掛小学校)で講演を行う。

 大正12年(1923年)、「波浮の港」発表。

 大正13年(1924年)、武蔵野村(現:武蔵野市)に住み、書斎を「童心居」と名付けた。

 大正13年(1924年)、「あの町この町」「兎のダンス」発表。

 大正15年(1926年)4月、女流歌手佐藤千夜子、作曲家中山晋平と共に「あづま詩社」の招きで米沢を訪れる。

 大正15年(1926年)8月、中山晋平、佐藤千夜子と共に荒木京之助川柳集出版記念音楽会で酒田を訪れる。

 昭和2年(1927年)、「中野小唄」発表。

 昭和4年(1929年)、「東京行進曲」発表。

この頃都下到處のカツフヱーを始め山の手邊の色町いづことも云はずこの唄大に流行す。其他はぶの港君戀し東京行進曲などといふ俗謡此の春頃より流行して今に至るも猶すたらず、歌詞の拙劣なるは言ふに及ばず、廣い東京戀故せまいといふが如きものゝみなり、


 昭和5年(1930年)10月8日、羽黒山に詣でる。

 昭和7年(1932年)4月22日、氷見市に遊ぶ。

 昭和7年(1932年)5月、野口雨情は門下阿南哲朗と帆柱山に登る。

 昭和8年(1933年)、越生町の労働会館で「越生小唄」と「山吹の里」の発表披露会が行われる。

 昭和11年(1936年)2月、矢板町の名士たちが泉漾太郎の斡旋で雨情を招く。

 昭和12年(1937年)6月、福渡温泉「和泉屋旅館」を訪問した。

 昭和15年(1940年)9月、釧路を訪れる。

 昭和17年(1942年)3月27日、宮崎市の椿山峠で炭焼きの状況を見学。

 昭和19年(1944年)1月、栃木県河内郡姿川村鶴田(現:宇都宮市鶴田町)に疎開。

 昭和20年(1945年)1月27日、疎開先にて永眠す。

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