吉井勇


吉井勇の歌

「『形影抄』以後」

昭和二十七年

   長崎聖福寺の境内に建てるじやがたらお春の
   碑のために

長崎の鴬は鳴くいまもなほじやがたら文のお春あはれと

   五月廿六日その碑の除幕式に際して

この石よ世の常ならずあはれなる女の涙凝りて成る石

長崎に來る旅びとの目にながく殘れよと思ふ石に對ひて

   五月廿九日、四十數年ぶりに天草島に渡り、
   わが若き日の曾遊を思ふ

ともに往きし友みなあらず吾ひとり老いてまた踏む天草の土

   久米正雄君の死をなげきて

京にひとり香くゆらせて歎きゐむ伊勢路の旅を思ひ出でつつ

筑紫路にをともに旅せし友はみなこの世を去りてひとり老いさぶ

長崎に陳玉といふむすめのゐて友と往きしもおもひでとなる

昭和二十八年

夜ふかく土佐の亡き友酒麻呂を思ひ出づれば涙ぐましも

  齋藤茂吉君を悼む

友亡しといふ知らせ來ぬ時ならぬ比叡の夜空のいなづまの如

ゆくりなく君と會ひたる過ぎし日の長崎ばなし誰と語らむ

友の死を聞きししばらく京の夜の炬燵もさむくもの言はずけり

觀潮樓歌會に寄りし友おほく世を去りたるにわが茂吉また

如月の下浣(すえ)の童馬忌來るごとに京の寒さもうべとおもはむ

寛左千夫信綱茂吉と時並(な)めて歌つくりしも明治の末か

昭和三十二年

  奥信濃遊草

   昭和卅二年九月中旬、奥信濃に赴き、上林温
   、志賀高原、熊の湯あたりに遊びて詠みけ
   る歌

雲坪(うんぺい)の繪に見るごとき山ありて奥信濃路の旅はなつかし

旅幸とこれをし言はめ空晴れて妙高も見ゆ黒姫も見ゆ

われは來ぬ心おのづと澄むといふ奥信濃路の秋を見るべく

澗滿の瀧を見るべくゆくわれの脚にからむは何の蔓ぞも

瀧見むと心きほへば道もなき熊笹藪もものならぬかな

信濃路は秋はやくして笠岳の山肌のいろいよよ冴えたる

夜を厭ひさすらひしころを思はしむ奥信濃路の龍膽の花

地獄谷へゆく道すがら目につきし藥師如來ををろがみまつる

とどろとどろ鳴る湯の音を聽きながら粽を食めば旅ごころ湧く

夏過ぎて丸山さびし岸邊には数隻のボート纜(もや)はれしまま

とどろとどろ鳴る湯の音を聽きながら粽を食めば旅ごころ湧く

山びと等何をか語る熊の湯のあるじの部屋の炬燵かこみて

ただひとり流離の旅に出でしころ見し妙高はいまもかはらず

信濃路はよしと思へど年ごろの一茶嫌ひはせんすべもなし

しづかなる三角の池を見てあれば死に誘ふごと妖氣ただよふ

昭和三十三年

   昭和三十二年五月二十五日、午前七時十分の
   急行瀬戸號にて京都を出發、二十年ぶりにて
   四國に向ふ。

いささかの感傷持ちて二十年見ざりし土佐の國見むとゆく

牛肉の佃煮添へし摶(にぎ)り飯戦災の日のごとく食(た)うぶる

大歩危の岩のひとつに見覺えのあるがごとしと思ひつつ過ぎ

   同日夕刻高知着、舊知に迎へられて、城内丸
   の内の得月花壇に入る

途中より汽車に乘り來し猪野野びと今戸益喜は些(ち)とも變らず

知るひとの顔おろおろと見廻しぬ高知駅頭にわれ下り立ちて

二十年まへの落魄おもひ出づ鳥打帽子いまもかぶりて

   翌廿六日午前は花壇に於て座談會、午後は高
   知放送局に往きて懐舊談の録音、鏡川の河畔
   より築屋敷に於ける舊居の前を過ぐ、

雅澄の墓にまうでしおもひでも友の顔見ればまたあらたなる

そのころの友等つどへる中にゐて伊野部恒吉なきを寂しむ

築屋敷といへる町名をなつかしむ思ひはあれどすでにあはしも

鏡川をへだてて遠く筆山を望むも幾年ぶりにならむか

わが住みし家の外(と)に來ていまもなほ親しみおぼゆ石榴(せきりう)の花

   翌廿七日は午前高知を發し、龍河洞を見物の
   後、在所村猪野野の舊棲の地に赴く、予がつ
   くりし草廬渓鬼莊、既に古びたれど猶存す、
   宿の前に柵を繞らしたる一株の梅あり、標示
   板を見れば、思ひきやこの梅、二十年前予が
   筑紫の太宰府よりもたらしたる、由緒ふかき
   飛梅の成長せるものならむとは、

双葉山の臍摺り岩はいづこぞと龍河洞に來て案内(あない)者に問ふ

わが廬(いほり)すでに人手にわたり居り藁葺屋根のあはれなるかも

二十年ぶりにて來ればあなあはれ今戸益喜の妻も死にたり

太宰府の飛梅の種子(たね)もらひ來しことさへいまはそこはかとなき

   翌廿八日は御前十時より物部川を望む斷岸の
   上に、新たに建てられたる予が歌碑の除幕式
   あり、往年さすらひの身をこの地に寄せたる
   時、今日このことあるを誰か豫期せむ

おのずから眼裏(まなうら)熱しわが歌の文字を刻めるこの石みれば

山鶯の鳴くこゑもまた録音すこの日何よりうれしきはこれ

斷岸のうへに建ちたるわが歌碑に風吹くなゆめ雨降るなゆめ

片隅にいまや世に亡き庵つくり大工久さんの妻も泣きゐる

   横濱に往き、近くここに建つべき歌碑の位置
   を定む、坂本龍馬の銅像の前にして、遠く太
   平洋を遠望するところ、われむしろ石となら
   むか

懐に何を入れしや膨らみて龍馬の像は靴を穿きたり

建設者高知縣青年と刻みあり龍馬の像にいのちある(うべ)

酒飲まずなりたる吾を寂しまず土佐の海見れば醉へるがごとし

   五台山に往き、望遠鏡にて昨年箏山の山頂に
   建ちたる予の歌碑を遠望、その夜は鏡川河畔
   の友の家に泊る夜半、目覺めて揮毫、

夜の二時に起きて揮毫す旅なればかかることさへ苦にならぬかな

五台山の竹林寺みちも雨となり旅ごころいま極まらむとす

   翌廿九日は午後より伊野部家を訪ひ、亡き友
   の靈前に燒香、更に小高阪山の墓に詣づ、予
   はその友のために再起せしめられたりと云ふ
   も可なり

たはむれに酒麻呂と呼びしわが友の位牌のまへに香焚くわれは
                     (※「火」+「主」)
短かかりしその生涯をなげきゐぬ小高阪山(さやま)の墓邊に

友の墓ををろがみつつも胸ぬちにわれ唱ふらく南無佛南無佛

   翌卅一日正宗寺に往きて子規堂を見たる後、
   舊知の田中宗坦君と語る、宗坦君は洛南八幡
   の圓福寺にて、神月徹宗師につきて修行した
   る禪僧なり、

子規堂に來てその遺墨こころ明治のにほひ戀(こほ)しむこころ

   翌六月一日、御前十時半杉山發の列車にて歸
   洛の途につく、四國遍歴七日の旅はここに終
   る、

道後にも別れむとして朝はやく伊佐爾波神社をろがみまつる

昨日往きし松山城を見上げつつそぞろ心に驛にいそぎぬ

旅をしてよきものを見てよき人と語りてさらに長生きをせむ

     柳河の雨

   その翌日猶雨降り止まざりしかど、なつかし
   ければ柳川に來りぬ。明治四十年八月、北原
   白秋、木下杢太郎と遊びてより、既に早く五
   十年の歳月は過ぎたり。往時紀行文「五足の
   靴」を書きし友はおほかた世を去り、空しく
   殘れるはわれ一人のみ

思へらくかばかり細くひそやかに柳に降るは白秋の雨

柳河の蒸し蒸籠のうなぎ飯食(は)みてわれのみ生くる寂しさ

沖の端の家にむかしの記憶あり白秋生家と彫れる石建ち

佃煮の工場となれる友の家のまへにたたずむわれひとり生き

寫眞集「水の構圖」の幾場面わが目のまへにありて恍然

採りて來ぬ雨に濡れたる白秋の詩碑のまへなるからたちの實を

  阿蘇を思ふ

風邪ひきて阿蘇にめげざる寂しさを何にまぎらしあらばよけむか

大阿蘇の外輪山に建つ歌碑に吹く山かぜも聽こえ來るがに

昭和三十四年

鴎外の觀潮樓に歌會(かくわい)ありて友とわかれぬかねやすの前

本郷のかねやすのまへに電車待ち鴎外先生に會ひしを思ふ

  崎陽紀行

   昭和三十四年三月、數年ぶりにて肥前長崎に
   遊びてつくれる

長崎にはじめて往きし紀行文「五足の靴」も古りにけらしな

丸山に往けば人呼ぶ女ありき娼家ここだく軒をならべて

二十六人の聖死にたるあとどころ弔らひたりき杢太郎と吾(あ)

茂吉いまだすこやかなりき長崎の石だたみ道をともに往きたる

聖福寺にじやがたらお春の歌碑建ちてはやいく年か時の流れし

四海樓の玉姫のことを思ひ出でて戀ならなくに涙もよほす

さそはれて茂吉とともに登樓す妓樓花月の奥の間の酒

崇福寺の門を入りたるしづけさは李朝の壺を撫づるこころか

カステラを燒く匂ひして福砂屋のまへはなつかし昔ながらに

おほらかに稲佐の嶽ゆ見はるかす海もはろばろ山もはろばろ

伊王島見ればわが友白秋の詩をおもひ出づきれぎれなれど

あはれあはれと茂吉は言ひぬ吾もまたあはれあはれと長崎を去る

かへりたる後の二三日長崎の寺の鐘の音耳を去らざる

昭和三十五年

  長崎の橋

眼鏡橋の石橋桁にまつはれる枸杞(くこ)の葉までは水もおよばず

旅ごこちもてわれわたる唐の僧如定(によぢよう)つくりしこの石橋を

いまも聞く世にあらがひて籠りゐし土佐の韮生(にらふ)の峽(かい)の水おと

命ながきことを願ひて今日よりはさらにしづけき老に入らまし

京に老ゆかの大土佐の山峡のわが草庵もすでに朽ちしか

京に老ゆ祇園の歌の碑の石もこのごろすこし苔づきにけり

京に老ゆ茂吉が形見の小さなる硯はそのまま棚の上に置く

京に老ゆむかし島原角屋にてせし流連の寂しさも知る

京に老ゆなほ思ふこと腑に落ちず銀閣寺みちをゆきもどりする

京に老ゆ胃の腑を切りて長病めばアラスカ會も行かで久しく

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