2019年長 崎

聖福寺〜重要文化財〜
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長崎市玉園町に聖福寺という寺がある。

国指定重要文化財 聖福寺4棟(山門)


 聖福寺は、鉄心道胖(どうはん)が延宝5年(1677年)に開創した黄檗宗の寺院である。

 この山門は、堺の豪商・京屋宗休が寄進し、堺の棟梁によって元禄16年(1703年)に竣工。堺で木材を切組み、海路長崎に運んで建造した。八脚門形式で、屋根は切妻の段違いで本瓦葺き、中央部を一段高めた雄大な造りである。

 中央の大額は、黄檗宗開祖の隠元が揮毫したものである。

長崎市教育委員会

国指定重要文化財 聖福寺4棟(天王殿)


 天王殿という名称は中国伝来のものである。中央に弥勒菩薩(布袋)と韋駄天を背中合わせに祀り、左右を通り抜けにした。仏殿と門を兼用する独特の形式を持つ。中門・弥勒門・護法堂などの別名がある。

 当寺山門と同じ堺の棟梁により、宝永2年(1705年)に竣工。鉄心が修業した京都の黄檗山萬福寺に倣い、中国建築様式の特徴である朱丹塗を避け、彩色は扉やその他の局部に止め、素木(しらき)を主体としている。反りのある優美な屋根と吹き放しにつく曲面の黄檗天井が特徴の建物である。

長崎市教育委員会

聖福寺石門


国指定重要文化財 聖福寺4棟(鐘楼)


 この鐘楼は、堺と長崎の棟梁の合作で、享保元年(1716年)に竣工。長崎県下で鐘楼建築では現存する最古のものである。

 全般的には禅宗様を基調にした造形で、長崎の黄檗宗寺院に見られるような強い中国色はほとんどない。全体の姿形は均整がとれていて、秀逸である。細部様式も派手さはないが、逆に抑制された上品さが感じられる。

 一部後世の改造は見られるが、創建当初の構造形式がよく保持されており、創立当時の伽藍遺構を構成する一連のものとして、建築史的価値の高い貴重な建造物である。

長崎市教育委員会

国指定重要文化財 聖福寺4棟(大雄宝殿)


 大雄宝殿は、釈迦を本尊として祀る仏殿である。元禄10年(1697年)に竣工し、正徳5年(1715年)に大改築が行われている。平面的にも棟高においても、崇福寺大雄宝殿(国宝)とほぼ同じ規格を持つ堂々たる仏殿である。

 柱は全て角柱とし、屋根の棟には鯱や宝珠飾を載せ、前面吹き流し上部には曲面の黄檗天井、卍崩しの高欄を付けるなど黄檗様式の特色は持ちながら、屋根には武雄で製作された赤瓦が使用され、京都・黄檗山萬福寺にはない、長崎の地方色が認められる。

長崎市教育委員会

大雄宝殿から見た天王殿


じゃがたらお春の碑


昭和27年(1952年)、建立。

表字 新村出書   裏面 吉井勇の題歌

長崎の鴬は鳴くいまもなほしゃかたら文のお春あはれと

 寛永年間のキリシタン禁制により、異国の地に流されて、遂に彼地に散ったお春を哀れんで追善のために造られた記念の碑である。

吉井勇は除幕式に参列した。

   長崎聖福寺の境内に建てるじやがたらお春の
   碑のために

長崎の鴬は鳴くいまもなほじやがたら文のお春あはれと

   五月廿六日その碑の除幕式に際して

この石よ世の常ならずあはれなる女の涙凝りて成る石

長崎に來る旅びとの目にながく殘れよと思ふ石に對ひて

「『形影抄』以後」

昭和34年(1959年)、吉井勇は長崎に遊ぶ。

聖福寺にじやがたらお春の歌碑建ちてはやいく年か時の流れし

「『形影抄』以後」

緑に囲まれた静かなお寺だった。

聖福寺

 慶応3年(1867年)5月22日、いろは丸事件の談判が、この聖福寺で行われました。4月23日、坂本龍馬らが乗った「いろは丸」は、瀬戸内海で紀州藩船「明光丸」と衝突・沈没。その賠償交渉が鞆の浦(福山市)と長崎で行われ、龍馬は土佐藩士・後藤象二郎とはかり、紀州藩に賠償金8万3000両(のちに7万両に減額)を支払わせることで決着しました。このとき龍馬は世論を味方にするため「船を沈めたその償いに、金をとらずに国をとる」という歌をつくり、長崎の街中に広めたと言われています。

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