吉井勇の歌碑


伊野部邸

高知市上町に伊野部邸がある。

 昭和6年(1931年)5月、吉井勇は初めて土佐に遊ぶ。

 『人間經』に「昭和六年五月、われはじめて土佐の國に遊びぬ。海は荒かりしかども空あかるく、風光の美そぞろにわが心を惹くものありき。」とある。

寂しけれは酒麻呂いかに新醸(にひしぼ)り香やいかになど思はるるかな

『天 彦』

 昭和12年(1947年)10月、高知の町外れの築屋敷に住む。

 『天彦』に「昭和十二年十月、土佐の國高知の町はづれ鏡川の河畔に、古びたる家を借りて住みぬ。この海南の僑居には、在ること僅かに一年なりしが、形影相憐の情忘れがたし。」とある。

眉あげてたたかひのことを語りつつ酒麻呂の酒酌みにけらずや

『天 彦』

伊野部邸の庭に吉井勇の歌碑があった。


友いまた生きてかあらむこゝちして
土佐路恋しくわれは来にけり

碑 陰

吉井勇先生は昭和六年はじめて土佐に遊びその後五年間
にわたり居を構えるに至ったのは今は亡き伊野部恒吉氏
の友情によるところが大であった ここに兩氏の旧知ら
永く記念せんとするものである 昭和卅四年六月建立

 昭和16年(1941年)11月17日、吉井勇は伊野部恒吉の訃報を得て、19日、海路土佐に着く。

  訃 報

   十一月十七日、突如土佐の友伊野部恒吉君の
   訃報來る、わがこの海南の友は、正義を愛す
   るの心深く、純情稀に見るの志人なりき

友の死の知らせ疑ふならねどもまことなりやとしばし考ふ

むらぎもの心正しき生涯も四十路といへばあまり短し

友の死を告げし電報前に置きて腕組みゐたりあまり悲しく

胸を打つ激しき思ひ堪へゐしが心しづまりて後涙出づ

これの世に友亡(な)しといふこの知らせ比叡(ひえ)颪かもいまかもて來し

  室戸岬

   十一月十九日、拂曉わが船は室戸岬を過ぐ、
   數年前の土佐流離のころのことを思へば、ま
   た感に堪へざるものあり

何ごともただありがたく船にして室戸岬もをろがみにけり

室戸山明星院の遍路みちいまは見えねどなつかしきかも

あるがまま身をまかすれば安けしや室戸の沖の大うねりさへ

室戸なる燈臺の灯のまたたきを見つつわれゐぬ思ひ遥けく

室戸の灯見つつ歎かふ過ぎし日の土佐さすらひの旅を思ひて

『わが歌日記』

  土佐路の旅

   昭和十六年十一月、圖らずも友の訃報を得
   て、直ちに海路土佐に到りぬ。亡友その名は
   伊野部恒吉、家銘釀を業とするを以て、予は
   戯れに酒麻呂と呼ぶ。殯に接したるの後、留
   まること僅一日にして京に歸りぬ。

  酒麻呂を悼む

室戸丸おもむろに舳(へ)を向き直すしづけき朝の大浦囘(おほうらわ)かも

室戸なる燈臺の灯の閃きも命あるうちに幾たびか見む

室戸山明星院の遍路みちありあり見えて明け初めにけり

わが船は浦戸に着きぬかなしもよ友の葬(はふ)りの今日といふ日に

今日友を葬(はふ)るかなしき日と知らずこころなく鳴る船の太笛

むらぎもの心ただしく生きて來し伊野部酒麻呂死ににけるやや

瀧嵐なつかしき名の酒つくりありける友も逝きてかへらず

友いまた生きてかあらむここちして土佐路戀(こほ)しくわれは來にけり

酒麻呂はまこと死にしかあらじかと思ひつつ來ぬ友の家まで

  酒麻呂追懷

酒麻呂が腰手拭のうしろつきいまも目に見ゆ死にしと思はず

いまもなほかなしと思ふ早死のわが酒麻呂の醉(ゑ)ひ眠り癖

(あ)と友と面河(おもご)の溪をゆきにけり寒山のごと拾得のごと

酒麻呂とともにゆきたる佐渡の旅昨日のごとく思ほゆるかも

おもひ出づ土佐山峡のわが庵の爐端の酒を友の笑ひを

『朝 影』

土佐を思(も)へど寂しきかなやわが友の伊野部酒麻呂すでに世に亡く

『玄 冬』

酒麻呂忌去年(こぞ)は忘れて過ぎけるよ土佐を離れてすでに久しく

生きがたし縊(くび)れ死なむと思ひしも土佐にわび居の或る夜なりしよ

わが友の大あぐら居(ゐ)の爐端酒思ひ出でつつ土佐をこそ思へ

『形影抄』

夜ふかく土佐の亡き友酒麻呂を思ひ出づれば涙ぐましも

そのころの友等つどへる中にゐて伊野部恒吉なきを寂しむ


 昭和32年(1957年)5月29月、吉井勇は伊野部家を訪ねる。

短かかりしその生涯をなげきゐぬ小高阪山(さやま)の墓邊に

友の墓ををろがみつつも胸ぬちにわれ唱ふらく南無佛南無佛

「『形影抄』以後」

 昭和34年(1959年)6月、吉井勇は土佐に赴き、伊野部邸の歌碑を見ている。宇和島、道後を巡って帰京。

 昭和35年(1960年)11月19日、吉井勇は74歳で没。

吉井勇の歌碑に戻る