|
外宮の北御門から、月夜見宮へ行く間の宮後(みやじり)町のこの道を小字神路といい、通称「神路(かみぢ)通り」といいます。昔は並木があり、中央を避けて通ったといわれ、今でも中央を歩かない風習があります。また、家並みの不浄所の戸も道の方へは開けず、不吉な行列もこの道を通らないとされています。「日本の神話」河出書房新社では、この神路通りを次のように解説しています。 |
|
「・・・(中略)・・・高河原神社(月夜見宮)と豊受大神宮とを結ぶ一直線の広い道路がある。その道は、神の通い道であると考える気持ちが山田の人々の間には古くからある。・・・(中略)・・・外宮の裏参道の入口と、別宮の月夜見宮(外宮の祇社の高河原神社)とを結ぶ幅広い直線の道路がある。この道は月夜見宮の神の月夜見尊(つきよみのみこと)が夜な夜な外宮へ通い給う、神の通い道であった。つまり御幸道であった。月夜見宮の入口の正面に石垣があるが、夜になるとその石垣の石の一つが白馬と化して入口にたたずんでいる。白馬は頭を社殿の方へ向けて、神が乗られるのを待っているのだ。夜そこを通りかかった人はその馬を目撃することがあるという。神の乗った白馬が路を通るとき、それにぶつからないように市民は恐れつつしんで、夜はこの路を通らないのだ。どうしても用があって通らねばならぬ時は、神の馬にふれないように路の端を通るのである。」 |
|
この神路通りは、このように神が通る路として昔から神聖なものとして考えられ、昔の人々の生活の作法にも影響していたといえます。 |

|
芭蕉は生涯6度伊勢を訪れたといわれています。 お伊勢参り、尊敬する西行法師や俳諧の祖である荒木田守武神主ゆかりの地である伊勢は芭蕉にとって憧れの土地でした。 伊勢は俳諧の盛んな土地で芭蕉のファンや門人も多かったため伊勢人との交流は深く、俳諧興行もしばしば行われました。 |
|
記録に残っているのは 貞亨元年(1684年)8月下旬 芭蕉41歳 第4回目の伊勢参宮「野ざらし紀行」の途中、伊勢大世古の御師、松葉屋風瀑邸に10日程滞在。8月30日外宮参拝。 |
|
三十日月なし千年の杉を抱く嵐 蔦植えて竹四五本の嵐かな 蘭の香や蝶の翅に薫物す 芋洗ふ女西行ならば歌詠まむ |
|
貞亨5年(1688年)2月 芭蕉45歳 第5回目「笈の小文」の旅のとき |
|
何の木の花とは知らず匂ひかな 梅の木になほ宿り木や梅の花 御子良子の一本ゆかし梅の花 はだかにはまだ衣更着のあらしかな 盃に泥な落しそむら燕 この山のかなしさ告げよ野老(ところ)堀 芋植えて門は葎の若葉かな 紙ぎぬのぬるともをらん雨の花 物の名を先づ問ふ蘆の若葉かな |
|
元禄2年(1689年)9月 芭蕉46歳 第6回目「奥の細道」を終え、式年遷宮を拝まんと伊勢に訪れる。 西河原(宮後町)の島崎又玄宅に宿泊。 |
|
月さびよ明智が妻の咄しせん たふとさにみなおしあひぬ御遷宮 門に入れば蘇鉄に蘭の匂ひかな 硯かと拾ふやくぼき石の露 秋の風伊勢の墓原なほすごし |
|
元禄7年(1694年) 芭蕉51歳 大坂で10月12日に他界する。 この年の元旦に江戸の深川芭蕉庵で伊勢を偲んで詠んだ句。 |
|
蓬莱に聞かばや伊勢の初便り |
