高浜虚子の句

『虚子百句』

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高浜虚子の自選百句。

昭和33年(1958年)、刊行。

平成22年(2010年)、復刊。

5 春風や闘志抱きて丘に佇つ
大正二年

 この一句について語ることは沢山ある。父が一時病気の為俳句から遠ざかってからの俳句界は、新傾向句が全国的にはやる形勢になった。俳句の本道は季題を尊重し、十七字の五七五でなければならない。本当の俳句を守る為に父はそれ迄の小説の仕事を擲って、俳句の道に立ち戻ったのであった。堅い決意から生れたものであろう。
(年尾)

14 道のべに阿波の遍路の墓あはれ
昭和十年

 父の郷里伊予松山から三里余り隔った田舎に風早の西ノ下という処があります。そこには南朝の忠臣、河野氏の城跡のある高い山があります。西の方はすぐ瀬戸内海が穏やかな波を打ちよせているというよりも湛えているといった方がよい程静かな海浜になっております。景色のよい処で、父が生れた年に松山城下から父一家は移って来て、父の学齢に達するまで住んでおりました。父の為にはなつかしい土地なのであります。昔から四国遍路はいつもこの道を通りました。遍路が父にとって今になつかしいのはこの幼時の記憶がさせているのであろうと思います。旧居のすぐ近くに大師堂があります。その大師堂のほとりに「阿波のへんろ」と彫られた墓が立っておりました。これも父の幼時の深い思い出となっていました。墓の表にも裏にもその遍路の名はなくて、ただ「阿波のへんろの墓」と書いてあるばかりで、男か女か年寄りか若いかも分りませんでした。ただ阿波の人とだけしか分らず、里人はそれをあわれんで葬ったものであろうかと思われます。私もはじめて行った時に見た記憶があります。その時に父がこの句を作りました。二度目に私が行った時にはこの墓が見えなくなっておりました。父は心に残ったこの墓を村人にはかって再建致しました。
(立子)

15 白酒の紐の如くにつがれけり
昭和十九年

 紐の如くにというのは白酒の性質を表わしたふさわしい比喩である。壜からつがれる白酒は、全く一本の紐の如くに垂れる。
(年尾)

16 紅梅や旅人我になつかしき
昭和二十年

 これは父の「小諸百句」の中にのっている句であります。父はふと小諸に紅梅がないようだと申しました。散歩の時には気をつけておりましたが、何処にも見当りませんでした。その後懐古園という公園(小諸城址)に一本の紅梅を見つけたと話しておりました。その時に出来た句と思います。小諸は疎開先であって足掛四年も父達は住みましたが、土地の人に馴染みが薄い旅人のような気持が強かったのでしょう。その紅梅に出会ってことのほかになつかしく感じ、旅人である自分が紅梅に漸く出会ったという、その時のなつかしく感じた想いをいったものであります。
(立子)

17 山國の蝶を荒しと思はずや
昭和二十年

 父は戦時中を信州小諸に疎開して居った。私も偶々父の家に滞在して居った。京都から田畑比古が訪れた。父はいつも極った道を散歩した。それは父の毎日の日課であった。比古私を伴って、その散歩道をいつもの如く連立った。春先の野路に飛ぶ蝶を見た。父は二人を顧みて此句を示した。
(年尾)

18 桃咲くや足投げ出して針仕事
昭和二十一年

 これも「小諸百句」の中にある句であります。小諸の町の外れを通っていると、庭には桃が咲いている、その隣の畑にも桃が咲いている、そうしてその一軒家のような処には女が足を投げ出して針仕事をしていた。鄙びたうちになつかしい光景であったのでありましょう。この足を投げ出して女が針仕事をしていた処に父は特に興味を抱いて句にしたものと思います。前の紅梅の句などと違って、桃は同じ艶麗な花ではあっても鄙びた感じがあります。
(立子)

20 家持の妻恋舟か春の海
昭和二十四年

 能登の和倉の湯で出来た句であります。私も一緒に行った旅でありました。昔大伴家持が越中守として赴任しておりました。その時、都に残して来た妻を恋う歌を沢山に作りました。それを今、七尾弯に浮んでいる舟を見て思い出して、あそこに浮んでいる舟は家持が乗っている舟ではないのかしら、家持が妻を恋い詠った舟はあの舟ではないだろうか、といった句であります。春の海がこの遊子家持を乗せた舟を浮べていると見たところに作者の詩情があるのであります。
(立子)

29 蛇逃げて我を見し眼の草に殘る
大正六年

 目の前を過ぎった蛇が、叢の中に消えた。蛇の眼は尚あとに残った。叙法の鋭さを示している。
(年尾)

31 汝(なれ)にやる十二単衣といふ草を
昭和十四年

 女官の正装に用うる十二単衣というのがある。幾重ねもし、その上に唐衣(からぎぬ)をまとうたのである。十二単衣の草は古い葉が落ちると直ちに新しい葉が出るというのでその名があるということである。汝にやるという気持には、其花をやるという女に親しみを感じつつ戯れに云ったのである。
(年尾)

35 炎天に立ち出でゝ人またゝきす
昭和十九年

 家を一歩出て、炎天の下に立って見ると、眩ゆいばかりの陽光である。思わず目ばたたきをした。
(年尾)

37 夏山の襟を正して最上川
昭和三十一年

 羽黒山に遊ぶ時に最上川に沿うて下った。或る所の其対岸の山は美しい山並であった。重なり合っている襞は美しかった。それを襟を正してといったのは作者の感じである。
(年尾)

46 桐一葉日あたりながら落ちにけり
明治三十九年

 桐一葉というのは、秋のはじめ頃に桐の大きな葉がぽとりと落ちて来るのをいうのであります。普通の木の落葉は小さくてはらはらと數多くこぼれるように落ちるのですが、桐の葉は仙人の持っている葉団扇のような大きな一葉が目立って落ちます。其処から桐一葉という名前が起って来たのでありましょう。殊にその一葉は日当りながら落ちて行ったというのであります。日当りながらといった為に、その一葉に、なお生命が宿っているような心持もするのであります。
(立子)

50 此松の下に佇めば露の我
大正六年

 前にも申しましたことのある風早の西ノ下での句であります。父の幼時育ったこの風早の家のすぐ近所に大師堂があり、その傍に立っている大きな松の木を詠ったものであります。この大松の下に佇んでおりますと、子供の頃のことを思い出されてなつかしく淋しい。その頃健在であった父母、兄嫂も亡くなっているし、自分と幼な友達であった人も大方は亡くなっています。松ははらはらと露を降らせ、自分も幼時を憶って涙がこぼれる、というのであります。
(立子)

51 天の川の下に天智天皇と臣虚子と
大正六年

 古い父の句集には「懐古」と前書きがある。先年父と共にこの句の出来たという筑紫の都府楼址に佇んだことがあった。昔、外敵が我が国の辺境を侵す恐れのある時代があった。其頃筑紫、即ち九州に都府楼というのが置かれて、其処が大本営になっていた。その頃、天智天皇は皇太子であって殆ど軍の総帥として其地に赴かれたという事がある。その都府楼址に一個の石碑が立っておる。父は昔、友人と一緒に其処を訪ねたのである。道で日が暮れて携えておった蝋燭に火を灯して漸く都府楼址という文字だけを読むことが出来た。空には天の川が空の果てから果てまで流れておった。暫く懐古の情に浸っておった時に此句が出来たとのことである。
(年尾)

53 鎌倉 秋天の下(もと)に浪あり墳墓あり
昭和二年

 私達一家が鎌倉東京から移転したのは明治四十三年十二月であった。爾来五十年、秋天の下にある由比ヶ浜の波も、頼朝幕府時代の古い墳墓も父にはなつかしいものである。なお扇ヶ谷の寿福寺には、私の妹六の墓もあり姪の高木防子の墓もある。
(年尾)

54 ふるさとの月のみなとをよぎるのみ
昭和三年

 これは、父が大阪から船に乗って九州へ行った時に出来た句であります。船で九州へ行く為には自然に父の郷里の松山に近い高浜といふ港を通るわけになります。いつもならばこの港で下船して郷里の松山に帰るのを今度の旅は友人も一緒であり、九州の方の用事も迫っているので――この時は別府温泉に招かれて行ったのであります。山崎楽堂、勝本清一郎、画家の小出楢重、それに大阪朝日の記者、大道弘雄の一行でありました――折ふし月がよく、高浜港に停泊している時も月下望郷の感じが強く心を捕えたのでしたが、兎に角急がしい旅とてそのまま下船もせずに航を続けました。その時の心持がこの句にはよく出ております。立寄ることもせずにふるさとの月の輝く港をただ過ぎて行くのである、という句であります。
(立子)

57 くはれもす八雲旧居の秋の蚊に
昭和七年

 松江市にある小泉八雲の旧居を訪うての吟である。そこはもとのわびしい士族屋敷であって、(前に城濠があって)秋蚊がよく出る。忽ち其秋の蚊にくわれた。この秋の蚊には曾てここに住んで居った八雲もくわれたことであろう、となかなかになつかしんだ心持がある。
(年尾)

64 見事なる生椎茸に岩魚添え
昭和二十年

 この句も「小諸百句」の中にある句であります。或る時、小諸の在から生椎茸と岩魚を頂いた時に作ったものと覚えております。これはこの句のままの事実であります。大きなとりたての生椎茸と、生々しい岩魚をもらった、この山里の贈物に興味を覚えて、その送主の好意を謝する時に出来た句であります。前の秋晴の句などとは反対に、手近な卑近な即事を句にしたものと思います。
(立子)

65 蔓もどき情はもつれやすき哉
昭和二十二年

 蔓もどきは蔓梅擬である。人情の世界の葛藤をふと想うているのである。とかくもつれ易いのが情事には多い。
(年尾)

72 遠山に日の当りたる枯野哉
明治三十三年

 これは父が自分の好きな句だ、といっております・父の人格だ、と自ら考えている句であるかも知れません。遠山に一点の日が当って居る。その前に広がっている枯野には日が当っておりません。それでさしつかえないのであります。ただ恃(たたず)む、遠山の端にある一点の日、それが父の信ずるところであると私には想われます。兎に角父はこの自分の句を好んで短冊に揮毫します。人から句を指定して来た時は、その句を書きますが、指定して来ない時は、この句を書きます。
(立子)

75 流れ行く大根の葉の早さ哉
昭和三年

 野路の小川に大根のちぎれた葉がまにまに早く流れてゆく。それだけのことを云ったのである。が、父はこういう説明をしていたように思う。自然界の一つの相をえがいたものである。この大根の葉はどこまで流れてゆくのであろう。この水は海に注ぎ、水蒸気となり、雲となり、雨となり、又この小川を流るる水となるのであろう。人は冬になれば畑から大根をぬいて来て又その小川のほとりでそれを洗うであろう。
(年尾)

83 一塊の冬の朝日の山家哉
昭和十九年

 小諸での作句である。浅間山麓の小諸町の寓居の句であろう。冬の小さい一かたまりの朝日の当っている山家である。侘しい住居である。
(年尾)

84 冬山路俄にぬくきところあり
昭和十九年

 小諸に疎開していた頃の句であったと思います。小諸の疎開している家を出て、山がかった処を父はよく一人で散歩しておりました。或る時帰って来て、なだらかな山路を歩いていると急に暖かになる処がある、と話しておりました。その頃の父は防空頭巾をかむり、耳袋をつけて寒い風の吹く道をよく歩いておりました。そして浅間連山の麓の山路にかかる処まで歩いてゆくこともありました。浅間颪しとよく申しますが、父はこれは浅間颪しでなく、千曲川の下流の方から吹いて来る風が寒いのだと申しておりました。山路にかかって片方が高い山の壁になっていますと、その壁に遮られて、小諸にもこんなに暖い処があるのかと思われる程の谷にかかります。その時のことをいったのでありましょう。
(立子)

85 大根を鷲掴みにし五六本

 これも小諸での作句である。多くの大根を両手に提げた百姓が行き過ぎた。大根の葉を無造作に鷲づかみにして提げているのである。
(年尾)

86 句を玉と暖めて居(を)る炬燵哉

 これも小諸での作句であります。小諸を出て上田に行った時、上田の俳人に擁せられて句を作った事がありました。その時、寒いので炬燵が出来ておりました。父はふと或ることを句にしようと考えておりました。頭の中でその思想を大事にはぐくみ育てていました。その時の心持を句を玉と暖めて居るといったのであります。
(立子)

98 手毬唄悲しきことを美しく
昭和十四年

 手毬唄は子供の為に出来たものであるけれども、人間の悲しいことをうたっているものが多い。併し悲しいことを美しく唄っております。これは唄にかぎらず芝居でも物語でも悲しいことを美しく仕組んでいるのであります。文学、芸術というものは大概そうでありましょう。手毬唄というものは子供が唄うものですから、あどけないものであって殊に美しく唄うということを云ったものであります。
(立子)

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