高浜虚子の旅

「木曽路の記」

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明治27年(1894年)6月、高浜虚子は木曾路を経て京都に帰る。

   虚子を送る

躑躅さける夏の木曾山君歸る

   虚子の木會路を行くとて旅立ちする時 二句

馬で行け和田塩尻の五月雨

五月雨の木會は面白い處ぞや

『寒山落木 巻三』(明治二十七年 夏)

正岡子規『かけはしの記』の3年後である。

風早の夕日の浦に防風摘みし昔はまぼろし許り残りて、腰折山の小杜若を旅の枕に忍ぶ夜のの夢明け易く、人生は逆旅固より何処を宿と定べき、明日は命を木曾のかけ橋にからまんと、五月六日根岸獺祭書屋の折戸を立ち出づるといふに主が

   馬で行け和田塩尻の五月雨   子規

と餞別せし菅笠風に軽く、陸舟走るや三十里の武蔵野、

   武蔵野や水田にうつる五月雲



夕雲の空覚束なく三峰に分るゝ者は妙義山なり。雲垂れて暮色遠くより至り窓外山飛び森行く。行方に三日月は煙に消えて碓氷峠のトンネル二十六出つ入りつ、汽笛木魂に響きて物凄し。

   短夜の闇に聳ゆる碓氷かな

妙義山


軽井沢の宿に単衣寒く、独り地図に向ふ影法師かすかに淋しげなり。

塵外の夢を梅干渋茶にさまして見渡す窓外雲目前に起りて軽井沢の山々、

   山々は萌黄浅黄や子規   子規

と曽て詠ぜしは此処なめり。まれも亦笠を取りて、

   子規鳴く頃寒し浅間山

同行三人、行雲、流水、虚子と記しぬ。旅衣の袖寒く襦袢を重ね、草鞋の緒堅く踏みしめて立ち出づ。道は平らかに遙か見え渡りて丘に始まり丘に終る。人家稀に鳥声聞え草花開き、夏浅うして春色全く去らず。沓掛追分の駅々うらさび勝りて傾く軒の柱くすぼりながら、脇御本陣蔦屋などしるせるも昔なつかしく、髯の白き翁が何となくて杖にすがりて空打ち仰ぎたるもあはれなり。殊に追分は善光寺道の分るゝ処にて、汽車なき前は長野上田にも劣らぬ処と聞きしが、今は青楼のあと空しく蜘の振舞に面影をとゞめたり。



浅間の麓路打ち過ぎて御代田小田井もあとになりぬ。水田遠近に見えそめて、見かへす浅間に一点の雲もなし。

浅間晴れて豌豆の花真白なり

妙義山


新道に迷ひ入り桑畑に道踏み違へ、日は夕暮の足いよいよ傷みに堪へかねて、道行く少女呼びとゞめて中仙道通りはと問へば、新道は二里も遠かるべし、彼処の森の梢がくれの糸の如き道こそ旧道なれと云はるゝも心細く、十歩に休み五歩に休み、忽ち見る道の辺の小川の縁に沿うてやさしく咲き出でたる花菖蒲は旅人を慰めんとするにやをかし。茂田井の駅に宿も無く、漸く蘆田にいぶせきを尋ねあたりて菖蒲湯に一日の労れを休めぬ。

   旅の夜の菖蒲湯ぬるき宿りかな

夢は信濃路の山河かけめぐりて襖もる風に覚めやすく単衣の下に綿を重ねて膚猶寒し。小雨晴れたれば草鞋の緒を結び痛き足を踏みしめて笠取峠にかかる。白雲峰を止まり渓水ー巖(※「山」+「品」)にせかれて、一歩一吟凡て是れ旅路の情なりけり。

   信濃路や秣にまじるあやめ草

   曙の岨の麦道女行く

   家二軒笠取山の時鳥



羊腸たる山道長く、麓路近く水の光るは諏訪の湖なるべし。夕暮の諏訪の宿に一夜の宿りを乞へば、つくづくと我を見て空室なければとことわりぬ。言葉ねもごろに幾度か頼めば、いぶせき部屋に請ぜられて菅笠の文字は何ぞと独りをかし。裏に湧き出づる温泉に二日のつかれを休め、湖畔の夢のどかなり。



裏山は日影の畑に桑摘む少女も見えて、杜鵑花、菖蒲の咲きまじりたるこゝを行脚の命、美は満ち満ちたり一歩の天地、思へば遠くも来たるかな、山河千里の変化独り心に嬉し。塩尻村に昼餉したためて、日向にかざす菅笠重く松の木蔭をたどりて洗馬の駅に著く。清水あり、木曾殿の馬洗ひし処と言ひ伝ふ。行く事一里半、桜沢といふ処あり。こゝより木曾路なりと云ふ。女のまだうら若きが鉄漿つけて、自在の蔭に煙にむせたるも面はゆげにうつくし。此あたりより男女とも袴着けて、畑打ち桑摘むなり。幼児の姉を呼ぶに姉さま、祖母を呼ぶに婆々さまと云ふ。

   夏の夕菅笠の旅を木曾に入る

   麻衣の木曽の早乙女鉄漿黒し

   木曾の奥桑の実青し子規

此夜贄川に宿る。

   夕暮の芥子の花見ゆ木曾の宿



上り下りの山道、草鞋すべり裾よごし、笠と合羽は雨を凌ぐに足らざりけり。福島は木曾路中の繁栄を見るべく聞けど、雨中の泥濘面白からずうちすぎて、名にし負ふ桟を心待ちに、足の疲れすらわすれて行く。流水岩を洗ひ、家両三あるあたり道伴となりたる男これこそよといふ。芭蕉の句石に刻まれて苔むす様に、こゝをいつはりとはおもはねど、変るは浮世の桟とは名ばかり、石垣きづきあげて命をからむ蔦の葉尋ねんもあらず。

   名にし負ふ木曾の桟を来て見れば里人馬の鈴ならしつゝ行く

木曾の桟


上松に宿る。

   五月雨の夕雲早し木曾の里

雨止まず。暁みれば襖殊にいぶせく関羽張飛の絵に染の雲うづまく。

   五月雨や木曾の山家の片明り

夙く立出づ。今日は寝覚の床見んが為めに心急ぎのせらるゝなり。越後の男といへるに道伴となりて行く事半里余り、熊笹の露しげきが中に浦島旧跡かけぬけ道としるせる木標を見出でゝわけ入れば、臨川寺の門扉物古りて叩けども答へなし。

   涼しさや扉の奥の水の音

程なく小坊主一人案内してこれこそ寝覚の床よと指すを見れば、畳の如きもの屏風の如きもの、巨岩縦横に川床に連りて碧潭共間に湛ふる、誠に天斧の妙工と称へつべし。昔水の江の浦島の子こゝに釣を垂れて老を養ひしが時の帝の詔を奉じて不老不死の薬を奉り其後ち行く処を知らざりしと伝ふ。雨愈降りまさりて天地暗し。

   五月雨や檜の山の水の音

寝覚の床


小野の瀑を見る。

   子規鳴き過ぐ雲や滝の上



峠を下れば美濃路なり。

   木曾を出れば夏山丸く裾長し

桑畑稀に麦圃多し。野袴つけたるもの無く「ナモ」といふ言葉耳立つ。夕立。

   傘さして行く人も見る夕立かな

中津川に日いまだ残れば大井を宿と志す。茶店に憩ひて岐阜迄の道程を問へば岐阜といふ処知らずと婆々の目をしほしほとして人顔を見るも哀れなり。大井にも中河にも我を泊めくれる宿なし。細久手に志す。

   紫の夏の夕雲宿も無し

爪尖上りの山道にかゝりて二里許りも来しと思ふに細久手の駅に著かず、日はいつしか暮れて松の闇心細く、いたむ足引きかぬるさへあるに腹空しうして泣き出ん許りになりぬ。道路迷ひけんかとあやまるゝに問ふ人さへ無く暫く松の根方に腰掛けて休らへば闇より現はるゝ蛍に声ありて三人の子供の我前を過ぐるを見る。呼びとめて細久手はと問へば知らずと答へて行き過ぎんとす。茶店など無きかと問へばありと答へ棄てゝ、再び蛍追ふ声のみ闇に残れり。力を得て辿る程に半丁許りにしてまだ灯もつけぬ一軒家あり。宿を乞へども許されず纔に一飯の恩に預る。先きの子供等蛍を紙袋に入れたるを擁いて帰り来る。

   松並木美濃路の蛍大いなり

細久手はと問へば媼怪しみてこゝは中仙道に非ず伊勢街道なりといふ。こはいかにせんと悲めば、飯焚く火を行灯に移して懇ろに行手の道を教へくるゝ嬉しさ。これより二里行けば竃といふ村あり、其より一里半の峠を越えて日吉村に出で、又二里の峠を越ゆれば御嶽に出で始めて中仙道に会すべし。峠は物騒なれば今夜は竃泊りに定め玉へといふ。尚二里の夜道は堪え難かるべく覚ゆれど一杯の濁酒に勢を得て立ち出づ。

   夏川の音聞えけり星明り

曇りし空晴れて上弦の月松にかゝる。

   ほとゝぎす月上弦の美濃路行く

半里も歩みたりと思ふ頃足の痛み今は堪へ難くなりて木の根小石に躓き勝ちなるに濁酒の酔い疲れたる五体に浸み渉りて一歩も歩むべからず。道傍の畑中に下り立ちて刈り棄てある豆殻を氈として菅笠顔に被りて倒るゝと思へば夢に入る。

   短夜の山の低くさや枕許

寒さ五体に浸みわたりて目覚むれば、酒の酔已に全く去りて身は野中の露にまみれて臥せり。上弦の月も落ちて銀河さへ西に傾くを見れども未だ夜の明くべう景色なし。星暗くして時計の針見えねば時を知らず、足に任せて再び歩む。

   短夜の星が飛ぶなり顔の上

竃村と覚しきに出でたれど家々ひたと閉ぢて宿乞はんすべも無し。追分を右に取れば坂にかゝる。

恐ろしき峠にかゝる蛍かな

峠近く四五軒の小家あり。其一軒の裏戸明けて背に火を負ひたる裸男の小便するが明に見ゆ。

   短夜を博奕うつなり山の家

峠を下りて道傍に積み重ねある薪に腰を下せば、東天漸く白み渡りてはらはらと雨の一過するも潔し。

   短夜や草の中なる百合の花

日吉村は未だ眠りて起きず。又峠にかゝる。足愈痛みて心地死ぬべう覚ゆ。路傍の六地蔵の首に荷物うちかけて又休む。

   草の中釣鐘草も見つけゝり

暫く行きて番小屋らしきものあるに入り倒るゝより早く又華胥に遊ぶ。手枕のしびれたるに驚き覚めて又行けば峠茶屋に朝餉焚く煙の上る嬉しさ。再び床几の上に倒れて邯鄲の婆が起こす迄は知らず。朝餉食ふ程に雨又降り出づ。道程聞けば爰より御嶽へ二里八町。御嶽より岐阜へ十里といふ。力尽きて嚢底を探りこゝより太田の渡しといふ木曾川の渡し迄車に乗ることに決す。此茶屋の亭主車を引けばなり。車上即時、

   人行かぬ旧道せまし茨の花

暫く別れし木曾川に会ふもなつかしく車を下りて渡し舟に乗る。乗合ひを数ふれば、傘させし僧、脚絆つけし旅芸者、風呂敷包み持ちし小女、矢立腰にせる丁稚、蓆着たる百姓と菅笠着たる我と六人なり。旅芸者とは関の追分にて別れ百姓と連立ちて木曾川に沿うて下る。道の左方に城見ゆ。稲置城といふ。尾張の国の家老何某の居城なりしなど百姓の教へ呉るゝに僅に足の痛みを忘れて行く。長さ五里の御料林を抜け、新加納、高田、蔵前の諸村を過ぎ、夕刻漸く加納停車場に着。乗客雑沓の中待合の床几に倒れて眠る。夜京都着。吉田町の碧梧、鼠骨(虚桐庵)を襲うて歓語時を移し、碧梧桐の枕を借りて其柔かなるを賞しつゝ眠る。

   住みなれし宿なれば蚊もおもしろや

犬山城


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