正岡子規(1867〜1902) は俳人・歌人・随筆家。幼名は昇(のぼる)。本名は常規(つねのり)、別号を獺祭書屋(だっさいしょおく)主人、竹の里人などといった。伊予国藤原新町(現・愛媛県松山市)に生まれ。俳句・短歌の革新を唱え、また写生文を提唱した。 新聞「日本」及び俳誌「ホトトギス」により活動、子規庵での句会には森鴎外、夏目漱石も訪れ、歌会には伊藤左千夫、長塚節が参加、歌誌「アララギ」の源流となる。 明治38年(1905年)1月より翌年8月まで夏目漱石は『吾輩は猫である』を雑誌「ホトトギス」に連載。 著書には『俳諧大要』『俳人蕪村』、歌論『歌よみに与ふる書』、歌集『竹の里歌』、随筆『墨汁一滴』『病床六尺』『仰臥漫録』など多い。 子規はこの場所に明治27年(1894年)2月から住み、同明治35年(1902年)9月19日病のため没す。母八重、妹律は子規没後もここに居住し、その後は子規の門人寒川鼠骨(そこつ)が庵を守りつづけた。 |
子規が亡くなったのは漱石留学中のこと。夏目漱石が英国から帰ったのは明治36年1月。 |
昭和20年(1945年)戦災によって平屋造り家屋は焼失したが、昭和25年(1950年)鼠骨らにより旧規の通り再現され、現在に至っている。 |
糸瓜咲て痰のつまりし仏かな |
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痰一斗糸瓜の水も間にあわず |
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をとゝひのへちまの水も取らざりき |
辭世の句となると、死の感想を陳べたものが多いが、此の句は世を辭する時のたゞ事實を陳べた迄である。特に辭世の句と銘をうつたわけではないが、さう意識して句を認めたことはたしかである。併し唯其場合の寫生句である。それがいかにも子規らしい。十五夜に絲瓜の水を取るといふ習はしがある。子規が死んだのは十七日であつた。
高浜虚子『子規句解』 |
明治28年(1894年)12月31日、夏目漱石、高浜虚子がやって来た。 |
漱石が来て虚子が来て大三十日 |
明治29年(1896年)1月3日、子規庵の句会に森鴎外、夏目漱石も訪れた。 |
蓑虫の父よと鳴きて母もなし 明治三十二年九月十日 根岸庵例会 |
明治38年(1905年)10月23日、日露戦争凱旋観艦式。その翌々日、秋山真之は子規庵を訪れた。 |
頭上で、梢の鳴る音がした。真之はよほど長いあいだ路傍で立っていたが、やがて歩きはじめ、しだいに足早になった。 律は家の前に人影が立っていることに気づいていた。薄気味わるく思い、母親の八重に告げた。八重が路上に出てみると、真之のうしろ姿だけが見えた。 「あれは淳さん(真之)みたようじゃったが」 と、八重は家のなかにもどって、律にいった。律はおどろいてあとを追ったが、しかしもう姿がなかった。 「淳さんなら軍艦に乗っておいでじゃけん、人ちがいじゃろか」 と、格子戸の前で母親にささやいた。ところがあとでこの母親は、子規の菩提寺の大竜寺からきた役僧の話で、目のするどい柔術教師のような壮漢が寺に供養料を置いて行ったことを知った。 ──いいえ、あれは海軍士官じゃなかったですよ。 と、役僧が断定したのは、その人物が軍服を着ていなかったというだけの理由によるものらしい。
『坂の上の雲』(雨の坂) |
昭和25年(1950年)11月12日、石田波郷の企画により俳壇史探訪会の第一回が根岸子規庵訪問となった。 |