名にあふ武隈の松は竹駒明神の辺にあり二タ木の松ともいへり
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寛延4年(1751年)、和知風光は『宗祇戻』の旅で俄の時雨のため武隈の松に行くのを止めた。
武隈の松見んとせしに俄にしくれしきりなれは行事やみぬ
宝暦13年(1763年)4月、蝶夢は松島遊覧の帰途、武隈の松を訪ねている。
「都の土産に見きといはん」と武隈の松をたづぬ。いでや、此松の栄枯度々なる、元善・季通は茂りしを称し、能因・西行は枯しをなげかれしに、いづれのころ植しにや、二木の陰たれて千とせの色ふかし。
一木づゝ調べ合すや青あらし
明和2年(1765年)、大島蓼太は再び武隈の松を訪れている。
ふたゝび武隈の松にいたりて
我老も松のおもはむ下すゞみ
明和7年(1770年)、加藤暁台は奥羽行脚の旅で二木の松を訪れている。
此松に古きことくさにも云ひつたへて常にもおもひもふけしに、たかはね蒼髯二幹に立わかれて、角もじやいかで一木とはいふべくもあらず
松かげや左右にわかれて下涼み
| | 暁台
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扇にのせてすり流す墨
| | 休粋
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明和8年(1771年)6月12日、諸九尼は武隈の松を見て句を詠んでいる。
岩沼に出て、ミきとこたへんと有し、武隈の松の二木を見る。
風薫る松やいづれを相夫恋
安永2年(1773年)、加舎白雄は武隈の松を訪れた。
寛政3年(1791年)5月29日、鶴田卓池は武隈の松を訪ね、白石の城下へ。
名取川を過て岩沼に宿る。道祖の社、笠島の実方塚は、足のいたみに心いそぎて見残はべりぬ。武隈のまつを尋ね、あぶくま川をわたりて、白石の城下にいづる。
寛政6年(1794年)、倉田葛三は奥羽行脚の途上武隈の松で句を詠んでいる。
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