俳 人
桜井蕉雨
蕉雨の句
信州飯田の豪商。桜井三郎右衛門。名古屋の井上士朗門。江戸に出て旗本となる。鞠塢・護物・可麿とともに道彦門の四天狗と言われた。一茶よりも12才年下である。
蕉雨
| 江戸大門通田所町 八巣蕉雨
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| 文政己丑五月七日逝去
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安永4年(1775年)5月25日、信州飯田で生まれる。
寛政5年(1793年)、名古屋の井上士朗に師事して誹諧を学ぶ。
寛政8年(1796年)5月、句集『松の炭』を梓行。
寛政9年(1797年)、羅城は飯田の蕉雨を訪れる。
享和元年(1801年)、巣兆は信州飯田に滞在。
寄添て又火を焚やころもがへ
| 巣兆
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樹を伐て夜に入宿や更衣
| 蕉雨
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享和元年(1801年)4月、井上士朗は門人松兄・卓池を伴い江戸から帰る途中で飯田を訪れた。岳輅も尾張から飯田を訪れていた。
文化2年(1805年)、巣兆の世話で向島に菫堂という草庵を結ぶ。(文化11年とする説もある。)
文化7年(1810年)5月8日、一茶は焦雨と両吟。
古わらぢ蛍とならば角田川
| 一茶
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嚔(くさめ)一つに夏の明けり
| 焦雨
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萩芒桔梗刈かや壁ぬりて
| 雨
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ころりからりと鳩吹が行
| 茶
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瓢たんで鱠(なます)押へるさたもなし
| 雨
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終の栖は出羽の象潟
| 茶
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この時が初めての出会いであるようだ。
発句は、文化5年(1809年)4月18日、一茶が流山で詠んだもの。
『七番日記』(文化9年3月)に「瓢たんで鱠(なます)おさゆる袷哉」がある。
文化7年6月13日の朝、小林一茶は蕉雨と山谷堤から猪牙(ちょき)舟に乗り、浅草寺の鐘の音を聞く。
時の鐘(浅草寺)
十三 晴 鶏のはらはら時、住吉町を出る。蕉雨、同僕保太郎、同行三人。山野堤より猪牙といふ舟に乗る。
かはせみの芦にちよいとや角田川 蕉雨
観音の晨鐘手に取ばかりに聞
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涼しさに忝(かたじけな)さの夜露哉
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只たのめ山時鳥初松魚(がつを)
| 一茶
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猪牙(ちょき)舟は江戸時代、市中の水路で大量に使われた一人あるいは二人漕ぎの屋根のない船で、舳(みよし)が長く船足が速い。吉原の遊び客の足として盛んに用いられた。山谷船。
隅田川から綾瀬川に入る。
小菅川に入。左右合歓の花盛り也。
古舟もそよそよ合歓のもやう哉
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遠くからくゝり支度や竹の露
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向の木合歓の仲間の花らしや [蕉]雨
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「小菅川」は綾瀬川。
その日は双樹の留守宅に泊まる。
翌14日、一茶は焦雨に案内されて流山から小金原、布施村を経て守谷にやって来た。
十四 晴 小金原
下陰を捜してよぶや親の馬
この句の碑は、流山市の香取神社にある。
一里塚の碑
下陰を捜してよぶや親の馬
布施村中食す。守谷西林寺入。将門旧迹所々に有。
蚊の声や将門どのゝ隠シ水
| 蕉雨
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朝涼や瘧(おこり)のおつる山の松
| 一茶
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鶴老も飯田の出身で、焦雨とは同郷。
文化14年(1817年)6月18日、一茶は焦雨を訪れ、27日に江戸を立ち、上尾に泊まる。以後一茶が江戸に出ることはなかった。
[十]八 晴 八巣ニ入
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[廿]七 晴 上尾 油や多左ヱ門
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八巣は焦雨の別号。
蕉雨は八巣一世、八巣謝堂は八巣二世、八巣謝徳は謝堂の子で、八巣三世。
文政2年(1819年)10月、八巣亭で興行。
文政二卯十月
| 於八巣亭興行
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おとろへや時雨る夜々に似る心
| 蕉雨
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今年は声のおそき木兎
| 里丸
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文政4年(1821年)3月、冬花園魚文連中芭蕉句碑建立。八巣蕉雨書。
春なれや名もなき山の朝霞
文政8年(1825年)10月12日、里丸は江戸の田喜庵で蕉雨、護物と脇起こり俳諧を巻く。
文政12年(1829年)5月7日、55歳で没。
友人蕉雨は信濃の国より江戸に出て、よく同志の輩をみちびきけるが、五月七日なき人の数に入しと聞えけるに、胸つぶれて泪とゞめかねつ。今一度はとひもとはれもせんとかたみにいひつるを甲斐なしや。その母はらから親しき人々の歎も思ひやられて袂をしぼりぬ。
東京都文京区の徳源院に墓がある。
天保10年(1839年)、八巣謝堂は東京都足立区の西新井大師に八巣蕉雨の句碑を建立。
一輪の牡丹終日咲にけり
天保11年(1840年)3月、八巣謝堂は徳源院に八巣蕉雨の句碑を建立。
さみだれや初手をおもへば山の雨
天保12年(1841年)、蕉雨の十三回忌追善に『さつきそら』(謝堂編)刊。
天保13年(1842年)、小萩庵社中は芭蕉の句碑を建立。蕉雨と壷伯の句が並刻されていたようだが、今は無い。
弘化2年(1845年)、北原志雄、今村蛙村は飯田の元善光寺に句碑を建立。
淋しさは人にこそよれ鳴く蛙
阿智村の月見堂に句碑がある。
満月の片隅にある伏家かな
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