俳 人
下郷亀世
尾張鳴海の人。蝶羽の養子となり、酒造業の千代倉を継ぐ。別号鉄叟。
下郷家本家(千代倉屋)
元禄元年(1688年)11月23日、下里知足の四男として生まれる。
元禄7年(1694年)7歳の時、芭蕉から亀世の号を与えられる。
宝暦6年(1756年)4月、白井鳥酔は亀世を訪ねている。
阿父龜世叟の隱れ家を尋侍る。祖翁在世の人なれは聞く事
みなめつらしく、しはしは風話をなす。かつ翁の遺物あり句な
くては拜ませすとあれは、一つ脱てとありしに思ひ寄たて
衣かえ後に負し笈床し
宝暦7年(1757年)2月23日、横田柳几は千代倉家に泊まっている。
二月廿三日 晴天七つ比よりくもり 江戸在かうのす横江(ママ)半(ママ)九郎殿柳几ト申誹人被参。とも壱人、上下弐人今夕泊り。はいかい有。夜ニ入蝶羅宅ニて、三千春、猶水、李青、亀章寄、歌仙有。□吸物夕飯うんどん打。
二月廿四日 くもり昼少前より雨ふり八つ過より快晴 今朝江戸客夜泊り被申候誹人柳几朝飯ニて出立名古屋へ今日被参候 蝶羅千鳥塚迄送り行。吾等挨拶句
柳几主人道行を祝して
神あれバ徳あり花のいせ桜
『千代倉家日記抄』(和菊日記)
宝暦8年(1758年)7月27日、大島蓼太は吉野行脚の途上千代倉家を訪れている。
七月廿七日 快晴残暑強 夕方江戸通り塩町、雪中庵蓼太と申点者、推□今夕留ル。夜ニ入猶水、亀章、亀洞、蝶羅、自分一順有。嵐雪翁道統のよし。
『千代倉家日記抄』(亀世日記)
宝暦9年(1759年)4月5日、白井鳥酔は烏明を伴なって千代倉家に泊まる。6日、出立。
四月五日 晴天 鳥酔、烏明本家ニ泊。
四月六日 曇晴天 右両誹師隠居へ見へ咄ス。則出立。
老の身の耳掻憎しほとゝぎす
『千代倉家日記抄』(亀世日記)
一月九日 暖晴長閑夜ニ入曇 自分、次郎兵衛、太右衛門、向隠居へ七十賀筵御祝儀ニ行。祝会客来大勢。夜ニ入迄賑々敷御座候。
鉄叟公古稀之賀
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かゝる時こきの浦からわかな哉
| 和亀九
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一かなで鶴もかざしやわかな風流
| 蝶羅
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宝暦8年(1758年)9月15日、古稀賀集『こきの芽』(常和ら編)10冊届く。
九月十五日 快晴 京井筒屋庄兵衛、こきの芽十冊、千鳥がけ弐部来。
『千代倉家日記抄』(和菊日記)
明和元年(1764年)、77歳で没。
安永2年(1773年)10月、蝶羅は「春雨塚」建立。
「春雨塚」碑陰に亀世の句が刻まれている。
かさ寺や浮世の雨を峰の月
鉄叟の句
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