2010年神奈川

横 浜〜山下公園〜
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今日は横浜の街を歩いてみる。

JR根岸線関内駅を降りて、馬車道を行く。


旧横浜正金銀行本店があった。


 国指定史跡
旧横浜正金銀行本店本館

 横浜正金銀行は、安政6年の開港以来、外国商人が主導していた貿易金融取引を改善するため、明治13年2月28日に設立されました。その後政府の保護を受けて外国貿易関係業務を専門的に担当する銀行として成長し、大正8年には世界3大為替銀行の一つに数えられるようになりました。

 この建物は明治37年に横浜正金銀行本店として建設され、ドイツの近代洋風建築の影響を受け、明治時代の貴重な建造物であることがら、昭和44年3月12日には国の重要文化財の指定を受けております。

 さらにこのたび、我が国の近代史のなかでも、産業経済の発展に貢献した貿易金融機関のあり方を示す貴重な建造物およびその敷地であることから、国の史跡に指定されました。

神奈川県教育委員会

横浜赤レンガ倉庫


 明治44年(1911年)、横浜新港埠頭倉庫2号倉庫(現:横浜赤レンガ倉庫)竣工。妻木頼黄(つまきよりなか)の設計による建物である。

山下公園へ。

「赤い靴はいてた女の子像」があった。


作詞 野口雨情
作曲 本居長世

赤い靴 はいてた 女の子
異人さんに つれられて いっちゃった

横浜の はとばから 船に乗って
異人さんに つれられて いっちゃった

今では 青い目に なっちゃって
異人さんの お国に いるんだろう

赤い靴 見るたび かんがえる
異人さんに 逢うたび かんがえる

この曲は横浜港を舞台に作られ、1921年(大正10年)に発表された童謡です。女の子の像はこれを記念し、多くの人に親しまれる彫刻となることを願って、ここに置かれています。

かもめの水兵さん


武内俊子 作詞
河村光陽 作曲

かもめのすいへいさん
ならんだすいへいさん
白いぼうし 白いシャツ 白い服
波にちゃっぷ ちゃっぷ うかんでる

かもめのすいへいさん
かけあしすいへいさん
白いぼうし 白いシャツ 白い服
波をちゃっぷ ちゃっぷ こえてゆく

碑を建てることば

 作詞者武内俊子さんは昭和8年の秋ある日このメリケン波止場から船で布教のためハワイへ旅立たれる叔父さんを見送りにこられました。それはよく晴れた日の午後のことで桟橋一帯に白いかもめがたくさん飛びまわりそれが折からの夕陽に映えてとても美しく印象的でした。この童謡はこのときの光景を描いたもので横浜港は「かもめの水兵さん」の発祥地であります。

昭和54年11月 野間省一

氷川丸


総トン数:12,000トン 全長:163メートル

氷川丸は、日本郵船のシアトル航路の新鋭船として1930年4月三菱重工業横浜造船所で建造されました。太平洋戦争中は病院船、戦後は引き上げ船等として従事の後1953年7月我国唯一の外航客船としてシアトル航路に再びデビューしました。本船は戦前戦後を通じて248回太平洋を横断しています。

1961年5月、横浜開港100年記念事業の一つとしてこの地に係留されて以来、マリンタワーと共に山下公園のそして横浜港のシンボルとして市民に親しまれています。

戦後も病院船として引き上げに従事したようだ。

 この日から8日経った。1月14日の午後、待ちこがれていた病院船(氷川丸)の到着を知って海辺に走ったときには、すでに白い大きな船体がどっかりと青い海を背景に停泊していた。煙突と舷側の鮮明な赤十字のマークが、私の眼をとらえて離さない。

「あー、これで生きて祖国に帰れる。もう大丈夫だ」

 悲痛な叫び声が、腹の奥のほうに湧き返っていた。先刻から砂浜に屈み込んでいる大勢の患者も、声もなく飽くこともなく、じっと氷川丸を見入っていた。

『7%の運命東部ニューギニア戦線密林からの生還』(菅野茂)

 昭和23年(1948年)6月10日、高浜虚子は氷川丸に乗船。小樽へ。年尾同行。

六月十日。氷川丸乗船。

 舷側の夏潮早し伏して見る

 堪へ難き船の西日や下甲板

 夏海や一帆の又見え来る


   北海道旅行

船員が又物捨てに夜光蟲

梅雨雲の四方に垂れたりひたに航く

甲板はや灯りぬ梅雨の航つゞく

月の出は淋しきものよ船の上

船中の句会がすめば昼寝せん


2010年は氷川丸生誕80年。

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