昭和11年(1936年)2月21日、高浜虚子は門司着。22日、後藤萍子の案内で自動車道を風師山に登る。正午、虚子は門司出帆。上海に向かう。 |
風師山 |
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梅ありといふ |
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登らばや |
見はるかす目にかがやかにうつりたる赤間が關の夏潮のいろ 大いなる船ほうほうと汽笛(ふえ)鳴らし馬關海峡暮れにけるかも 風師山にのぼりて空を仰ぐとき雲と遊ばむこころ起りぬ 風師山のぼれば天の日もちかしすなはち心燃えにけるかも
『天 彦』 |
風師山 |
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のぼりて空を |
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仰ぐとき |
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雲と遊ばむ |
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こころ起りぬ |
この頂に立つ |
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幸福の輝きは |
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これをとらふる |
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術を知りし山人たちの |
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力によるものなり |
1894年2月5日生まれ。仙台市出身。慶応義塾大学卒。 近代アルピニズムの開拓者・紹介者。1921年、スイスアルプスのアイガー東山稜の初登攀。1925年、カナディアン・ロッキーの未登峰マウント・アルバータの初登頂。1956年、日本山岳会の悲願であったヒマラヤの未登峰マナスル(8163m)の遠征隊長として初登頂に成功した。初登頂を報告するため翌年から日本全国を巡回し、九州にも足跡を残された。北九州では1957年10月槇の来訪を機に、風師山早朝登山会の堤甚五郎会長が槙さんを関門海峡の絶景を俯瞰できる風師山に案内した。この記念碑はその折の感慨を槙記したものである。槇有恒は戦前・戦後を通じて日本山岳会の会長を2度歴任し、その後、名誉会員に推挙された。1989年5月2日、没。享年95歳。 |