色にして老木の柳うちしだる |
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我が柳河の水の豊けさ |
昭和17年(1942年)11月2日、白秋は57歳で没。 昭和18年(1943年)、『水の構図』を刊行。 |
寫眞集「水の構圖」の幾場面わが目のまへにありて恍然 |
ついかがむ乙の女童影揺れてまだ |
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寝起きらし朝の汲水場 |
橋ぎはの醤油竝倉西日さし水路は埋む台湾藻の花 |
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竝倉のしづけき生鼠壁(なまこ)月夜にて鳰は寄りゆくその向うの葦に |
往還に |
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白き埃の |
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立ちながれ |
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あな |
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恋ほしかも |
宮柊二。本名は宮肇(はじめ)。(1912〜1986)新潟県北魚沼郡堀之内町出身。芸術院会員。歌は、白秋先生最後の弟子と言われる柊二が昭和25年初めて柳川を訪れた折の一首。歌誌「コスモス」創刊。歌集『日本挽歌』所収。 |
水の街棹さし来れば夕雲や |
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鳰の浮巣のささ啼きのこえ |
昭和60年(1985年)1月25日、北原白秋生誕百年記念に柳川ロータリークラブ建立。 |
筑紫路の旅を思へば水の里や 柳川うなぎのことに恋ひしき |
天正18年(1590年)、田中吉政は5万7千石余の岡崎城主となる。 慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦では東軍に組し、石田三成を捕らえた功績により、筑後一円の国主となり、柳川城を居城とした。 慶長14年(1609年)2月18日、江戸参勤の途中、伏見で客死。享年62歳。 |
水のべは柳しだるる橋いくつ |
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舟くぐらせて涼しもよ子ら |
有明潟睦五郎の哥 |
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ムツゴロ、ムツゴロなんじ |
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佳き人の潟の畔(ほとり)の |
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道をよぎる音ささやき |
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たるべし、かそけく |
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寂しく、その果てしなき |
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想いのきゆる音 |
昭和21年(1946年)11月18日、立花伯邸松濤園でホトトギス六百号記念柳河俳句会。 |
午後、柳川。立花伯邸・松濤園にて。 語りつゝ磴のぼりゆく紅葉冷え |
昭和22年(1947年)1月、阿波野青畝は柳河の俳人に水郷に案内された。 |
岸の梅魚獲る舟を行らしめず
『晩涼』 |
柳河の俳人が私を水郷に案内して、まず戦後料理屋を経営する立花藩邸についてから小さい舟を出してくれた。あちらこちらに大きなザボンの果実が枝を低く撓めている。藺苗をそろえる老人がいたりする老人がいたりする風景は北原白秋の柳河風俗詩をすぐ思わせてくれる。そのときノスカイヤ(遊女屋)という変ったことばを聞いたが足を向けなかった。 まんまんと水のみちる岸に数本の梅がのめり出して白く咲いているのであった。下枝のさきが水に浸りそうだ。ど(※「竹」+「奴」)を揚げる舟を丁度隠すように見えた。半ば隠れたまま舟は動かず、いつまでも同じところにいる。「行(や)らしめず」は、文人画に接する気品が出そうである。 |