2021年福 岡

柳川川下り〜碑巡り〜
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柳川城堀水門から乗船場に戻る。

30分待ったが、乗船客は私だけだった。

柳川古文書館の前に北原白秋の歌碑があった。


色にして老木の柳うちしだる

我が柳河の水の豊けさ

柳河の写真集『水の構図』所載の歌。

昭和17年(1942年)11月2日、白秋は57歳で没。

昭和18年(1943年)、『水の構図』を刊行。

柳川城堀水門へ。


城内に入る。


裏堀は藻をかいくぐる鳰(にほ)居りて遥けきは啼けり城内(しろうち)らしも

北原白秋の歌碑


ついかがむ乙の女童影揺れてまだ

寝起きらし朝の汲水場

並 倉


橋ぎはの醤油竝倉西日さし水路は埋む台湾藻の花

竝倉のしづけき生鼠壁(なまこ)月夜にて鳰は寄りゆくその向うの葦に

宮柊二の歌碑


往還に
白き埃の
立ちながれ
あな
恋ほしかも

宮柊二。本名は宮肇(はじめ)(1912〜1986)新潟県北魚沼郡堀之内町出身。芸術院会員。歌は、白秋先生最後の弟子と言われる柊二が昭和25年初めて柳川を訪れた折の一首。歌誌「コスモス」創刊。歌集『日本挽歌』所収。

昭和61年(1986年12月11日、74歳で没。

日本の道百選顕彰道


水辺の遊歩道

北原白秋の歌碑


水の街棹さし来れば夕雲や

鳰の浮巣のささ啼きのこえ

 昭和60年(1985年)1月25日、北原白秋生誕百年記念に柳川ロータリークラブ建立。

唯一の売店


右にうなぎ供養碑がある。

木村緑平の句碑


草の花ほんに月がよか

こちらは裏で、表には「雀生れてゐる花の下をはく」の句が刻まれているそうだ。

木村緑平は柳川市南浜武生まれ。種田山頭火と親交が深かった。

筑後国主田中吉政公之像


 天正18年(1590年)、田中吉政は5万7千石余の岡崎城主となる。

 慶長5年(1600)、関ヶ原の戦では東軍に組し、石田三成を捕らえた功績により、筑後一円の国主となり、柳川城を居城とした。

 慶長14年(1609年)2月18日、江戸参勤の途中、伏見で客死。享年62歳。

北原白秋の歌碑


水のべは柳しだるる橋いくつ

舟くぐらせて涼しもよ子ら

蜘蛛手の棚


この川やまだ張りすてて露(あら)はなる蜘蛛手の棚もよき月夜なり

「待ちぼうけ」像と歌碑


船頭さんが唄ってくれた。

檀一雄の文学碑


  有明潟睦五郎の哥

ムツゴロ、ムツゴロなんじ
佳き人の潟の畔(ほとり)
道をよぎる音ささやき
たるべし、かそけく
寂しく、その果てしなき
想いのきゆる音

檀一雄は柳川市沖端(おきのはた)出身。檀ふみの父である。

昭和62年(1987年)、建立。

御花下船場へ。


「御花」


 昭和21年(1946年)11月18日、立花伯邸松濤園でホトトギス六百号記念柳河俳句会。

 午後、柳川。立花伯邸・松濤園にて。

  語りつゝ磴のぼりゆく紅葉冷え


 昭和22年(1947年)1月、阿波野青畝は柳河の俳人に水郷に案内された。

岸の梅魚獲る舟を行らしめず

『晩涼』

 柳河の俳人が私を水郷に案内して、まず戦後料理屋を経営する立花藩邸についてから小さい舟を出してくれた。あちらこちらに大きなザボンの果実が枝を低く撓めている。藺苗をそろえる老人がいたりする老人がいたりする風景は北原白秋の柳河風俗詩をすぐ思わせてくれる。そのときノスカイヤ(遊女屋)という変ったことばを聞いたが足を向けなかった。

 まんまんと水のみちる岸に数本の梅がのめり出して白く咲いているのであった。下枝のさきが水に浸りそうだ。ど(※「竹」+「奴」)を揚げる舟を丁度隠すように見えた。半ば隠れたまま舟は動かず、いつまでも同じところにいる。「行(や)らしめず」は、文人画に接する気品が出そうである。


西鉄柳川駅へ。


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