明治21年(1888年)10月22日、福岡県三潴郡浜武大字南浜武(現:柳川市南浜武)に生まれる。本名木村好栄(よしまさ)。 明治43年(1910年)3月、長崎医学専門学校(現:長崎大学医学部)に入学。 大正3年(1914年)2月、「層雲」に投句。荻原井泉水に師事。10月、長崎医学専門学校卒業。 大正8年(1919年)4月、大牟田市旭町仮寓に種田山頭火を迎える。 大正14年(1925年)3月、別府市亀ノ井ホテルに於ける井師歓迎俳句大会に出席。 大正15年(1926年)6月、三井病院辞職。郷里に新築開業。 昭和2年(1927年)3月、糸田村明治鉱業所豊国炭鉱中央病院に就職。 昭和4年(1929年)1月18日、種田山頭火の木村緑平宛書簡がある。 |
御手紙ありがたく拝見しました、御厚情の程御礼申上様もありません、おかげでまた歩きつゞけてをります、明後日は白船居まで行けませう、そこから詳しい消息いたしませう。 たまつて今日の草鞋をはく |
昭和5年(1930年)2月10日、種田山頭火が訪ねて来た。香春を案内する。 昭和5年(1930年)11月26日、種田山頭火を迎える。28日、香春を案内する。 昭和8年(1933年)7月、其中庵に種田山頭火を訪ねる。 昭和10年(1935年)4月30日、大山澄太が訪れる。 昭和11年(1936年)10月、再び其中庵を訪れる。 昭和13年(1938年)3月14日、種田山頭火を迎える。 |
街はづれまで送られて、金田までバス、そこから宮床まで歩く、緑平居はいつ来てもしたしい、香春岳もなつかしい、ボタ山も芽吹きさうな色彩をたゝへてゐる、天も春、地も春、人もまた春だ、夜のふけるまで話しつゞける、話しても話しても話がある。
『道中記』 |
昭和13年(1938年)10月、上野(あがの)村赤池鉱業所に移る。 昭和14年(1939年)8月13日、種田山頭火来訪。 昭和15年(1940年)6月、種田山頭火は『草木塔』を持参。10月11日、山頭火没、同30日、松山の一草庵を訪ねる。 昭和17年(1942年)10月、明治鉱業所赤池病院辞職。柳川市坂本町に帰臥。 昭和24年(1949年)10月、井師突然来訪。 昭和25年(1950年)10月、其中庵跡の山頭火句碑除幕式に出席。 昭和33年(1958年)9月15日、『雀のことば』大耕舎より発行。 昭和43年(1968年)1月14日、急性肺炎にて逝去。享年81歳。 昭和63年(1988年)10月11日、故木村緑平氏旧宅に木村緑平の句碑建立。 |
昭和十三年三月十四日山翁を迎えて 月ある山のふきのとうたべにきたと 山翁来訪 あんたが来ると山の蝉も朝から 昭和十三年十月赤池に移る 雲が月をかくすと暗い山の松の木 雨の中を山翁来 時雨るゝ旅のおもたくなつた日記おいてゆく 話が死ぬときのことになり寒くねるとする 山頭火急逝 驚いて見る白い雲がきゆる 鴉ほんとに山頭火は死んだのか 一草庵を訪ねて 盃が枕元に月がさしていたという 山頭火四十九日 山の冬は雲が出て鰯売の来る日来ない日 ねながら見ている雲が顔の上蝉なく 山頭火一周忌 雑草の花仏の酒を買いにゆく 宮崎神宮にて 松の木の夕日杉の木に移り宮居の上の雲 昭和十七年十月、十五年在住せし豊前の国を去り柳川へ移住 生活国にもつてかえつて大洋のそばにおく うまれ故郷にかえり枯芦毎晩月夜 思わぬ井師の来訪を受けて すゞめなく柳川の秋の夕焼を師に 其中庵跡の句碑、翁のねている姿とも見ゆ ほんにあたゝかく石がねころんでいた 山頭火忌 柿の葉のおつる音をきいている 柳川城趾にて 秋の雨のぬらす石の古い物語 大山氏を迎えて 話どうしても山頭火のことになる池の蛙なく |