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皆さんようこそお参りくださいました。 当、吉崎別院は通称吉崎御坊と呼ばれ、文明3年(1471年)本願寺第八代、蓮如上人によって吉崎の山上(通称お山)に坊舎が建てられたことを起源とするものであります。 現在のお山には、本堂跡を中心に当時を偲ぶいくつかの遺跡があり、室町中世の寺城の様子を今に残しています。 このお山全域は昭和50年2月、国の史跡に指定されました。 別院境内には本堂をはじめ、蓮如上人オカタミの御影を安置する中宗堂、また、鐘楼堂、資料館などが建てられています。 なお、資料館には「嫁威しの面」の物語本光坊火中の殉死の出来事など蓮如上人に関する宝物などが展示してありますので、拝観いただき上人の御遺徳を賛仰していただければ幸いであります。 どうぞ念力門の階段を登ってお参り下さい。
本願寺 吉崎別院 吉崎御坊史跡保存会 |

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この門は天正19年(1591年)豊臣秀吉が京都の西本願寺に寄進したもので元治元年(1864年)「蛤御門の戦い」の時、兵火から本願寺の堂宇を守った由来により「火消門」ともよばれた名高い門であります。 昭和24年(1949年)11月西本願寺より御下附(当時輪番福井正善寺住職、巨橋義信師)百余名の信徒によって京都から250粁(約60里)16台の荷車で念仏のかけ声と共に運ばれたものです。 なお、念力門の名は西本願寺第二十三世、勝如上人によって命名されました。 ちなみにこの石碑の裏面には次のように刻まれております。 |
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「本願寺北の総門は天正十九年豊太閤の寄付なり元天狗門と名く元治元年奇蹟に因りて火止の御門とも称せらる。 昭和廿四年 巨橋輪番本山にて乞て下付を受く 斎藤、平田両氏外百余名吉崎念仏報謝団を組織して荷車十六輌を以て之を運載せり、偏に祖恩を思ふて嶮難六十里を忍び専ら念仏を称えて風雨の九日を耐ゆ霜月の中の五日壮行を完遂せり、嗚呼偉なる哉、翌、四月竣工す。光明尊師親しく之を落す。念力門とは勝如宗主の名くる所なり。」 |

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大きさ11間4面、総欅材による紫辰殿造。延宝6年(1678年)に建立し、寛政7年に焼失、寛政9年(1797年)に再建され、今日に至る。 文明7年(1475年)8月蓮如上人吉崎御退去の後、幾人かの弟子たちによって遺跡を守り、又道場が設けられた。その内、山下道場が発展したものが今日の吉崎御坊だと伝えられている。 堂内には、本尊阿弥陀如来を安置し、極彩色の彫刻によって荘厳されている。 どうぞ心静かにお参りください。 |

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昭和8年(1933年)2月、吉井勇は吉崎御坊を訪れ、蓮如の像を拝んでいる。 |
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西御坊歌びとわれもかしこみて蓮如の御像おろがみまつる 聖蓮如ひらきたまひしおん寺に來ればかそけし松風の音
『人間經』 |

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この銅像は東京美術学校教授帝室技術員高村光雲氏(1852〜1934)の作で亀山上皇、大楠公、大西郷の銅像と共に、光雲四大作の一つに数えられている。銅像の高さは5メ−トル・御影石の台座は約7メ−トル、昭和9年10月完成し、光暢上人が導師となって除幕式が行なわれた。 |
| 御在世のひび御足を偲び泣く | 句佛上人 |
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銅像建設の発起者は丸岡町の酒井正造・笹野伊佐吉、吉崎の七郎丸勇の諸氏で今上天皇御即位の大典を記念して、越前加賀など各地の信者から多くの浄財を得て建設された。そのとき、東西両別院の防火用貯水池も寄進された。 |
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元禄2年(1689年)旧暦8月10日頃、芭蕉は吉崎の入江から舟で汐越の松を訪ねる。 |
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越前の境、吉崎の入江を舟に棹して、汐越の松を尋ぬ。
『奥の細道』 |

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吉崎は、大聖寺と、細呂木の宿との間、往還より西なり。立花の茶店の傍を、西に入て、南へ行事十五町ばかり、加賀、越前の境にある人家にて、北を加賀吉崎と云、南を越前よしざきと云。多くいさりの蜑の住家なり。越前吉崎には、吉崎の御堂とて一向宗東西の道場あり。蓮如上人の旧跡にて、南の山を蓮如山といふ。花瓶の松とて、名木あり。形立花のごとし。吉崎の里の西は、すべて入江にて、北を竹の浦といひ、南を蓮が浦といふ。皆名所也。(吉崎は名所に非ず)江のうちに、加島といふ在所あり。此辺尤佳景の地なり。
『奥細道菅菰抄』 |
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宝暦12年(1762年)3月、千代尼は吉崎御坊の蓮如忌に参詣。 |
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けふといふけふはじめてよし崎の御忌に詣 でける有かたさのあまりまづ御場よりはい したてまつりて うつむいた所が台やすみれ草 すみれ草根よけに立し青の雨 |

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この句碑は昭和8年、蓮如上人銅像建立のとき建てられた。吉崎、加賀大聖寺の俳人仲間、小池桂石、田中閑山、倉本秋甫、金池虎岳、曽谷浄哉、橋本洸汀、七郎丸悠□、の名が側面に刻されている。 千代は加賀松任の生まれで増屋六兵衛の娘、加賀前田藩足軽福岡弥八に嫁いだが、早く夫や子に死別した。幼少の頃より俳句を好み、各務支考にみいだされその名が知られ、のち、美濃派の俳人盧元坊や乙由とも親交があった。 千代は浄土真宗の信者であり、宝暦12年(1762年)千代尼60才の紀行文の中に、「やよいはつかあまり、よし崎まふでせむと旅立ちけるに…けふといふけふはじめてよし崎にまふでける。その嬉しさありがたさのあまり…」と題して記され、山上ですみれの花を見、浄土の花の臺(うてな)を思いこの句を残したのだろう。 千代尼はこのとき、吉崎で次の3句をも残している。 ○化生ケ市(加賀吉崎)にさしかかり、肌もあららな遊女たちをみて 《涼しさやはずかしいほど行きもどり》 ○山上より鹿島の森をながめ 《うぐいすのどちらが鳴くぞ水の影》 ○汐越の松をみやりて 《しお越の松や小蝶のなかもどり》
あわら市教育委員会 |
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天明2年(1782年)、田上菊舎は吉崎御坊に参詣している。 |
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越前吉崎の御寺に詣、此山に筆草宥。蓮如上人の古蹟と聞侍れば 穴賢ふみの筆くさ生茂り |
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吉崎入江 芦の葉月となる橋から汐のさし入るらしく |
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