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津和野川に沿う道を歩いて、森鴎外の旧居へゆく。 小さな屋敷であった。森家は十三代もつづいた藩医の家であり、父の静男がすでに蘭方医であったということが、鴎外を考える上で重要である。鴎外は八、九歳のころにすでに父からオランダ語を学んでいた。そとでは藩校養老館で漢学を学んだ。 鴎外宅にきておどろくことは、西周という、鴎外とどこか似たところのある人物の旧居が、川一筋をへだてて隣同士になっているということである。どちらも藩医の家で、親戚であったが、周のほうがむろん鴎外よりずいぶん年上であった。
司馬遼太郎『街道をゆく』(長州路) |

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森鴎外(本名林太郎)は、文久2年(1862年)1月19日この家に生まれ、明治5年(1872年)に10才で上京するまでここで過ごしました。その当時の様子は作品「ヰタ・セクスアリス」の中にも描かれています。 鴎外は、軍医総監陸軍省医務局長、帝室博物館総長兼兼図書頭になる一方、文学者としても活躍し、明治大正を代表する文豪として夏目漱石と並び称されています。死に臨んで「余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」と遺言し、大正11年(1922年)7月9日60歳で永眠しました。 建物は嘉永6年(1854年)に発生した大火の後に建てられたものと伝えられ、森家が東京へ移住した後、別の場所へ移築されましたが、昭和29年(1954年)鴎外三十三回忌を機に町へ寄付され、この場所へ戻されました。その後、昭和60年に大規模な保存修復を行い現在に至っています。また、庭先の詩碑は、鴎外の「扣鈕」の詩を佐藤春夫の筆により建立されたものです。 平成7年(1995年)にはこの旧宅に隣接して森鴎外記念館が開館し、鴎外の生涯と功績を顕彰しています。
津和野町教育委員会 |

| 南山の たたかひの日に |
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| 袖口の こがねのぼたん |
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| ひとつおとしつ |
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| その扣鈕惜し |
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| べるりんの 都大路の |
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| ぱつさあじゆ 電燈あをき |
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| 店にて買ひぬ |
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| はたとせまへに |
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| えぽれつと かがやきし友 |
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| こがね髪 ゆらぎし少女 |
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| はや老いにけん |
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| 死にもやしけん |
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| はたとせの 身のうきしづみ |
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| よろこびも かなしびも知る |
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| 袖のぼたんよ |
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| かたはとなりぬ |
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| ますらをの 玉と碎けし |
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| ももちたり それも惜しけど |
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| こも惜し扣鈕 |
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| 身に添ふ扣鈕 |
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右「うたかたより扣鈕」 |
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津和野の鴎外詩碑に「こがね髪ゆらぎし乙女」とあり 苺ぬすみてくろかみ乙女詩碑のかげ 鴎外の詩を読みて蜂に螫されけり 鴎外の落し釦が苺の実
『吹越』 |

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国指定史跡・森鴎外旧宅は、明治5年(1872年)に森家が上京する際、取引のあった薬種問屋の伊藤家(高津屋)へ譲られました。 その後、一時ここから北へ約250メートルの場所に移築されましたが、昭和29年(1954年)、鴎外の33回忌に際し、伊藤家の七代目伊藤利兵衛氏から津和野町へ寄贈され、もとの屋敷内に再度移築されました。 |

(鴎外生家) |
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| コスモスは明治の花か黄金のぼたんまことに惜し |
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