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薄暮、舟を發し、遥かに青森の神田嶽を望み、右に蟹田・大濱の諸浦を視て、曉に青森に達す。舟航八里。人家未だ起きず、舟中も又寒烈にして居るべからざるを以て、海濱の船鋪に入りて眠る。雪霰繽紛たり。青森は一大灣港なり、宜しく軍艦數十隻を備へ以て非常に備ふべし。 |
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明治27年(1894年)、合浦公園は水原衛作、柿崎巳十郎兄弟によって造園された青森県で一番古い公園だそうだ。 |


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文化9年(1812年)、浅田祇年は陸奥青森に生まれる。名は理助。 明治25年(1892年)、有香社を創設。 明治27年(1894年)9月9日、有香社中句碑建立。 明治29年(1896年)3月20日、85歳で死去。 |
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明治40年(1907年)5月8日、河東碧梧桐は合浦公園を散歩する。 |
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公園に散歩する。合浦公園と書いた石文が入口に立っておる。ここの公園は、大阪の浜寺にちょっと似た所がある。浜寺の松を八九分抜いて、残る一二分を汽車の線路に沿うように一列な並松にする、あたりをもっと広く平らにして、青い芝を一面に植え付ける、海近くに浪よけの低い土手を築いて、これにも芝を付けると、浜寺が合浦公園になると思いつつザクザクする砂を踏んであるく。 |
| 大正11年(1922年)11月27日、大町桂月は合浦公園を見に行く。 |
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臥雲も余も一日中歩かずに、じつとして居れば、腹の具合悪く、気分も良からず。一日風強く、雨強く、寒さも強し。合浦公園を見に行かずやとて、宿を出でむとす。何処へと女中問ふ。合浦公園を見に行くと云へば、このお天気にとて笑へり。
「陸奥の海岸線」(龍飛岬) |

| 船に酔ひてやさしくなれる |
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| いもうとの眼見ゆ |
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| 津軽の海を思へば |
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石川啄木が石をもて追わるる如く故里を出て妹光子と共に津軽海峡を渡ったのは明治四十年五月四日であった。 この歌碑は青森県啄木会が青森市その他の協力を得て青森県啄木歌碑建設委員会をつくり昭和三十一年五月四日に建てたものである。 |
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五月五日――青森――(陸奥丸)――函館 五時前目をさましぬ。船はすでに青森をあとにして湾口に進みつつあり。風寒く雨さえ時々降りきたれり。 海峡に進み入れば、波立ち騒ぎて船客多く酔いつ。光子もいたく青ざめて幾度となく嘔吐を催しぬ。初めて遠き旅に出でしなれば、その心、母をや慕うらむと、予はいといとしきを覚えつ。清心丹を飲ませなどす。 予は少しも常と変るところなかりき、舷頭に佇立して海を見る。 |
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七月十二日 前夜上野を発って、朝九時半に青盛に着いた。晴子と姪の新田容子と三人の旅である。村上三良、京子夫妻の家にまず休憩してゆっくりする。疲れのとれた時分に合浦公園へ行って見ることになる。 |
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外ヶ浜浜昼顔も見て来たり |


| 清く高く |
| 美事に |
| 希望の大世界 |
| を進み抜く |
