『奥の細道』では第1日目の宿泊地が草加宿のようにも読めるが、『曽良随行日記』には「廿七日夜 カスカベニ泊ル。江戸ヨリ九里余」と記されている。
千住から草加まで2里8町(約9km)。芭蕉の『奥の細道』の旅としては近すぎる。やはり春日部に泊まったのであろう。
いずれにしても、『奥の細道』に「早加と云宿にたどり着にけり」とあるので、草加には芭蕉像がある。
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芭蕉像

芭蕉像があるだけで、何の説明もない。
昭和10年(1935年)、麦倉忠彦は草加市に生まれる。
平成元年(1989年)3月、奥の細道旅立ち300年記念に設置。麦倉忠彦制作。
平成11年(1999年)、草加市文化賞受賞。 |
宝暦13年(1763年)3月17日、二日坊は江戸を立ち、草加に泊まっている。
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けさまてハ栄耀の土地にありて、今宵ハ物うらめしき寝覚也ける
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明和6年(1769年)4月5日、蝶羅は奥羽行脚の途上草加で句を詠んでいる。
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草加といふ宿にて
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泊れとて散らすや藤は夏ながら
| 蝶羅
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安政6年(1859年)正月25日、市原多代女は須賀川を立ち、江戸に向かう。
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草 加
江戸ちかくなるや雲雀のいくところ
かねは上野か浅草か、そゞろにこゝろさはぎて、句も出ずなりぬ
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正岡子規の句碑があった。

梅を見て野を見て行きぬ草加まで
明治27年(1894年)の句。
子規は虚子と千住街道を草加迄行き、さらに西新井の大師堂を拝み、最終汽車で帰ったそうだ。「籠さげて若菜つみつみ関屋まで」という句もある。
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さゝやかなる神祠(ほこら)に落椿を拾ひあやしき賤の女に路程(みちのり)を尋ね草加に着きぬ
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巡禮や草加あたりを歸る雁
| 虚子
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梅を見て野を見て行きぬ草加まで
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