市原多代女

『すがゞさ日記』


 文政6年(1823年)正月25日、市原多代女は須賀川を立ち、2月3日に江戸に着く。

正月廿五日笠のひもしむるに、二日灸はわするまじ、馬に風ひかすなと申置て

鳥ならば主貌せよ梅の花

みちのくにうまれながら、はじめてこの関をこゆれば、何となう旅のうへゆかしくて

秋風のむかしは寒し春の花

芦野にとまり、姉の墓参などして、かの柳見侍るに、たびごゝろいまださだまらず、家のこと何くれとなくなどおもひ出られて

西東こゝろのうごく柳哉

大田原のやどりはいとつかれて句なし。明れば那須のはらにかゝる。二荒高はらなど聞ゆる大岳西にそばだち、蓬すゝきの枯ふしたるさまはいとものすごきけしき也けり

春浅し風は西ふく四五十里

日光御宮の莊厳にめもくれて、さらに句も出でず。されどおもふことなきにしもあらねば

鴬に申置ばやおもふ事

うぐいすに木草の匂ふ朝日かな

院々の雪がまひおごそかなる中に、梅のしろうさきたるもうれし

ほしの夜のやみとりかへせ梅の花

   杉の並木のいと珍らしくて

春風の光りも杉の並木かな

   うつのみやに出る

これぞこの筑波ははるの魂か

   すゞめのみやといへるすくの名もおかし

嵐雪の雀あつまる木の芽かな

   あやしの茶屋にやすらへば

乙鳥の下に山賣るはなしかな

   はじめて士峰を望む

父母に逢うたこゝちや富士の山

旅なれぬこゝろは、きくもの見るもの、野に山にめづらしく、それとさだめたる趣向もいでこず、ふところ紙にかいつけたるくさぐさ

日にいく度かはるこゝろぞ芹薺

令法秋は煙草のさくあたり

草枕まくらの下の春の水

黄鳥の來て匂ひけり畑芹

駕かくものゝつまづきて、たび硯うちまけたるもをかし

すりこぼす墨また寒し竹の春

小むしろの月に茶を賣る柳かな

米つくもわざとがましや春の月

はるの月柑子の匂ふ風がふく

   草 加

江戸ちかくなるや雲雀のいくところ

かねは上野か浅草か、そゞろにこゝろさはぎて、句も出ずなりぬ

 一具庵夢南の許に滞留。4月10日、帰路につく。鹿島、水戸、棚倉を通り、20日頃、須賀川の晴霞庵に戻る。

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