街 道東海道


舞坂宿の渡船場

舞坂宿脇本陣から舞坂宿の渡船場へ。

西町常夜灯


 舞阪には往還道路沿いに3つの常夜灯があるが、ここは正面が両皇大神宮、西面が秋葉大権現、東面が津嶋牛頭天王、南面が文化十年二月吉日、願主西町中、と彫られており、この常夜灯は文化10年に建立されたことが分かる。

 舞坂宿では文化6年(1809年)西町より出火、宿の大半を焼く大きな火事があり復興に大変難儀をしている。当時火防せの山、秋葉信仰の高まりとともに人々の願いによりこの常夜灯が建立されたもので、その世話は現在も西町の人たちに引き継がれている。

浜松市教育委員会

舞坂宿の渡船場、本雁木跡


 江戸時代、舞坂宿より新居宿までの交通は渡船であり舞阪側の渡船場を雁木(がんげ)といった。雁木とは階段状になっている船着場のことをいい本来は「がんぎ」と読むが舞阪では「がんげ」といっている。

 ここは東海道を旅する人が一番多く利用した本雁木跡で東西15間、南北20間の石畳が往還より海面まで坂になって敷かれていた。またここより新居へ向かう船は季節により多少変わるが、関所との関係で朝の一番方は午前4時、夕方の最終船は午後4時であった。

浜松市教育委員会

史跡 北雁木(きたがんげ)


 ここは浜名湖今切渡しの舞坂宿側の渡船場跡で明暦3年(1657年)から寛文元年(1661年)にかけて構築されました。その後、江戸時代には災害で幾度か修復されています。両側の石垣の白い部分は昭和28年の台風で石垣が崩れたために積みなおしたものです。

 雁木とは階段状になっている船着場のことをいいますが、地元では「がんげ」と昔からいっています。

 舞坂宿には3ヶ所の渡船場がありましたが、一番南側は主に荷物の積み下ろしをした渡荷場(とうかば)。真ん中は旅人が一番多く利用した主要渡船場で本雁木と呼ばれています。

 この北雁木は主に大名や幕府公用役人が利用したところで、往還から幅10間(約18メートル)の石畳が水際まで敷きつめられています。

浜松市教育委員会

 文化2年(1805年)11月12日、大田南畝は長崎から江戸に向かう途中今切(いまぎれ)の渡しを渡り、舞坂に着く。富士山を見た。

今切の海をわたるに、西風にて波も平らかに、時の間に舞坂につく。遠江の灘も静にみゆ。この船の中より、はるかに富士のねのはしめて見わたさるもうれしく、はや故郷に歸りし心地せらるゝは、一年へだてし旅のならひにや。


 嘉永4年(1851年)3月29日、吉田松陰は藩主に従って江戸に向かう途中、新居から舟で渡り舞坂に着く。

關を過ぎ舟にて渡ること一里、前坂に達す。


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