私の旅日記2012年

錦帯橋〜吉川広嘉公像〜
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山口県岩国市の錦帯橋に行ってみた。


錦帯橋


 「岩国の錦帯橋」は「甲斐の猿橋」「木曽の棧」と並んで日本三奇橋のひとつとされる。「木曽の棧」の代わりに日光の「神橋」を挙げることもある。

錦帯橋を渡る。


 延宝元年(1673年)、第三代岩国藩主吉川広嘉(きっかわひろよし)によって創建。

 延宝2年(1674年)5月、洪水で流出。同年10月末、二代目錦帯橋完成。

 享保元年(1716年)4月18日、露川は門人燕説を伴って錦帯橋を見に行った。

卯月十八日、兼て聞く橋見ん迚、岩國に入る。板橋五桁にして百廿間とや。高さ虹のごとく、下に立て裏を見るに、その工みの奇なる事、から錦の糸組に似たり。覺て人に傳ふべくもはらねば其名斗を記す。

 錦帶橋

組橋やにしき織てふ菖蒲草
   居士


対岸から見た錦帯橋


 明和8年(1771年)、蝶夢は錦帯橋を訪れている。

 爰に錦帯橋とて世に見るものにせし橋あり。橋の数五ッ、はし柱もなくて木をもて組上げたれば、中は次第に高くさゝへて、さうなき巧なり。魯般の雲梯といふも、かゝる橋をやいふ。


諸国名橋奇覧「すほうの国きんたいはし」


 安永8年(1779年)、横田柳几は錦帯橋で句を詠んでいる。

   周防岩国錦帯橋にて

中絶ぬ帯の橋あり雲の峯


 天明2年(1782年)、佐々木松後は厳島から錦帯橋を訪れる。

   錦帶橋

繼橋やさつきの雲にかゝるかと

『厳島紀行』

 天明7年(1787年)9月13日、長月庵若翁は大坂湊橋か船出。17日、広島に至り陸路錦帯橋へ。

十七日、岩国錦帯橋一見す。渺々たる大河に五ッの橋を一すちにかけたり

誹諧曇華嚢』

 文化2年(1805年)10月21日、大田南畝は長崎から江戸に向かう途中で錦帯橋を訪れた。

市を出てひろき川原をゆきて、船にてわたれば、左のかたに遠く岩國のはしみゆ。川をわたりて市中をすぎ、岩國の橋の前に出たり。此川を錦川といへば錦帶橋といふなるべし。又橋臺の石をくみたる所かどありて、十露盤のたまに似たれば、俗にそろばん橋ともいへり。川原町のかたより岩國の居所の惣門にむかひて、高き橋五ッかけわたせり。橋中は前後の二のみありて、中の三の橋にはなし。欄干の下より橋桁の所をみるに、木をくみたるもの也。


 文政10年(1827年)6月18日、大雨の中を鶴田卓池は錦帯橋を見に行った。

岩国ノ城下迄五十丁。岩国ハ吉川氏六万石ノ城下也。錦川錦帯橋一見、此日ハケシカラヌ大雨、新湊に帰る。暮て又乗船也。


 嘉永6年(1853年)2月3日、吉田松陰は岩国の錦帯橋を見ている。

三日  晴。天明に舟を發し、新湊に至る、四里。藝商ここより上陸す。余も亦上陸して岩國に至り、錦帶橋を觀る。橋下に諫櫃を置く、示文(ふれぶみ)甚だ好し。往復の路程百町。橋は錦川に架す。川の海に注ぐ處を今津と爲す。新湊を發し、宮島に至る、五里。時に夜亥時なり。


昭和25年(1950年)9月、台風で流出。

昭和28年(1953年)、三代目錦帯橋完成。

平成16年(2004年)3月20日、「平成の架替」完成。

吉川広嘉公像


吉香公園へ。

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