東海道


『更級日記』(菅原孝標女)

 書名の「更級」(更科)は、作中の「月も出でで闇にくれたる姨捨になにとて今宵たづね来つらむ」の歌が、『古今和歌集』(巻第十七 雜哥上)の一首「わが心なぐさめかねつさらしなやをばすて山にてる月をみて」を本歌取りしていることに由来すると言われている。作中に「更級」の文言は無い。

寛元4年(1020年)9月3日、菅原孝標女は父の任果てて上京。

 あつまぢの道のはてよりも、なお奥つ方に生ひいでたる人、 いかばかりかはあやしかりけむを、いかに思ひはじめける事にか、 世の中に物語といふ物のあんなるを、いかで見ばやと思ひつゝ、 つれづれなるひるま、宵居などに、姉、継母などやうの人々の、 その物語、かの物語、光源氏のあるやうなど、 ところどころ語るを聞くに、いとゞゆかしさまされど、 わが思ふまゝに、そらにいかでかおぼえ語らむ。いみじく心もとなきまゝに、等身に薬師仏をつくりて、 手あらひなどして、人まにみそかに入りつゝ、京にとくあげ給ひて、物語のおほく候ふなる、あるかぎり見せ給へと、身を捨てて額をつき、祈り申すほどに、十三になる年、 のぼらむとて、九月三日門出して、いまたちといふ所にうつる。

 その夜は、くろとの濱といふ所に泊まる。片つ方はひろ山なる所の、砂子はるばると白きに、松原茂りて、月いみじうあかきに、風の音もいみじう心細し。人々をかしがりて歌よみなどするに、

   まどろまじこよひならではいつか見むくろどの濱の秋の夜の月

 そのつとめて、そこを立ちて、しもつさの国と、武蔵との境にてあるふとゐ河といふがかみの瀬、まつさとのわたりの津に泊まりて、夜ひと夜、舟にてかつがつ物などわたす。そのつとめて、そこを立ちて、しもつさの国と、武蔵との境にてあるふとゐ河といふがかみの瀬、まつさとのわたりの津に泊まりて、夜ひと夜、舟にてかつがつ物などわたす。

江戸川


 今は武蔵の国になりぬ。ことにをかしき所も見えず。浜も砂子白くなどもなく、こひぢのやうにて、むらさき生ふと聞く野も、蘆荻のみ高く生ひて、馬に乗りて弓もたる末見えぬまで、高く生ひしげりて、中をわけ行くに、竹芝といふ寺あり。はるかに、はゝさうなどいふ所の、らうの跡の礎などあり。いかなる所ぞと問へば、「これは、いにしへ竹芝といふさかなり。国の人のありけるを、火たき屋の火たく衛士にさしたてまつりたりけるに、御前の庭を掃くとて、『などや苦しきめを見るらむ、わが国に七つ三つつくりすゑたる酒壺に、さし渡したるひたえのひさごの、南風ふけば北になびき、北風ふけば南になびき、西ふけば東になびき、東ふけば西になびくを見で、かくてあるよ』と、ひとりごちつぶやきけるを、その時、みかどの御むすめ、いみじうかしづかれ給ふ、たゞひとり御簾のきはに立ち出で給ひて、柱によりかゝりて御覧ずるに、このをのこのかくひとりごつを、いとあはれに、いかなるひさごの、いかになびくならむと、いみじうゆかしくおぼされければ、御簾をおしあげて、『あのをのこ、こち寄れ』と召しければ、かしこまりて高欄のつらにまゐりたりければ、『いひつること、いま一かへりわれにいひて聞かせよ』と仰せられければ、酒壺のことを、いま一かへり申しければ、『われゐて行きて見せよ。さいふやうあり』と仰せられければ、かしこく恐ろしと思ひけれど、さるべきにやありけむ、おひたてまつりて下るに、論なく人追ひて来らむと思ひて、その夜、勢多の橋のもとに、この宮をすゑたてまつりて、勢多の橋を一間(ひとま)ばかりこぼちて、それを飛び越えて、この宮をかきおひたてまつりて、七日七夜(なぬかななよ)といふに、武蔵の国に行き着きにけり。

 みかど、きさき、御子失せ給ひぬとおぼしまどひ、求め給ふに、武蔵の国の衛士のをのこなむ、いと香ばしき物を首にひきかけて、飛ぶやうに逃げけると申し出でて、このをのこをたづぬるになかりけり。論なくもとの国にこそ行くらめと、おほやけより使ひくだりて追ふに、勢多の橋こほれてえ行きやらず。三月といふに武蔵の国に行き着きて、このをのこをたづぬるに、この御子おほやけづかいを召して、『われさるべきにやありけむ、このをのこの家ゆかしくて、ゐて行けといひしかばゐてきたり。いみじくこゝありよりおぼゆ。このをのこ罪しれうぜられば、我はいかであれと。これもさきの世にこの国にあとをたるべき宿世(すくせ)こそありけめ。はや帰りておほやけにこのよしを奏せよ』とおほせられければ、いはむ方なくて、のぼりて、みかどに、『かくなむありつる』と奏しければ、『いふかひなし。そのをのこを罪しても、いまはこの宮をとりかへし、みやこにかへしたてまつるべきにもあらず。竹芝のをのこに、生けらむ世のかぎり、武蔵の国を預けとらせて、おほやけごともなさせじ、たゞ、宮にその国を預けたてまつらせたまふよしの宣旨くだりにければ、この家を内裏のごとくつくりて住ませたてまつりける家を、宮など失せ給ひにければ、寺になしたるを、竹芝寺といふなり。その宮の産み給へるこどもは、やがて武蔵といふ姓を得てなむありける。それよりのち、火たき屋に女はゐるなり」と語る。

竹柴寺古事


 まだ暁より足柄を越ゆ。まいて山の中の恐ろしげなること言はむかたなし。雲は足の下に踏まる。山の半らばかりの、木の下のわづかなるに、葵のただ三筋ばかりあるを、世離れてかかる山中にしも生ひけむよと、人々あはれがる。水はその山に三所(みところ)ぞ流れたる。

「足柄の関伝承地」


 富士の山はこの国なり。わが生ひいでし国にては西面(おもて)に見えし山なり。その山のさま、いと世に見えぬさまなり。さまことなる山の姿の、紺青を塗りたるやうなるに、雪の消ゆる世もなくつもりたれば、色濃き衣(きぬ)に、白きあこめ着たらむやうに見えて、山のいただきのすこしたいらぎたるより、けぶりは立ちのぼる。夕暮れは火の燃え立つも見ゆ。

 清見が関は、片つ方は海なるに、関屋どもあまたありて、海までくぎぬきしたり。けぶりあふにやあらむ、清見が関の浪も高くなりぬべし。おもしろきことかぎりなし。

大井河といふわたりあり。水の世の常ならず、すり粉などを、濃くて流したらむやうに、白き水、早く流れたり。

 ぬまじりといふ所もすがすがと過ぎて、いみじくわづらひ出でて、遠江にかゝる。さやの中山など越えけむほどもおぼえず。

そのわたりして浜名の橋に着いたり。浜名の橋、くだりし時は黒木をわたしたりし、このたびは、跡だに見えねば、舟にて渡る。入江にわたりし橋なり。外(と)の海はいといみじくあしく波高くて、入江のいたづらなる洲どもにことものもなく、松原のしげれる中より、波の寄せかへるも、いろいろの玉のやうに見え、まことに松の末より波は越ゆるやうに見えて、いみじくおもしろし。

 それよりかみは、ゐのはなといふ坂の、えもいはずわびしきをのぼりぬれば、三河の国の高師の浜といふ。八橋は名のみにして、橋の方もなく、なにの見所もなし。ニむらの山の中にとまりたる夜、大きなる柿の木のしたに庵を作りたれば、夜ひとよ、庵の上に柿の落ちかゝりたるを、人々拾ひなどす。宮路の山といふ所越ゆるほど、十月晦日(つごもり)なるに、紅葉散らでさかりなり。

   嵐こそ吹き来ざりけれ宮路山まだもみぢ葉の散らでのこれる

二村山


 尾張の国、鳴海の浦を過ぐるに、夕汐たゞ満ちに満ちて、こよひ宿らむも中間に、汐満ち来なば、こゝをも過ぎじと、あるかぎり走りまどひ過ぎぬ。

 美濃の国になる境に、墨俣といふ渡りして、野がみといふ所に着きぬ。そこに遊女(あそび)ども出で来て、夜ひと夜、歌うたふにも、足柄なりし思ひ出でられて、あはれに恋しきことかぎりなし。

 雪降り荒れまどふに、物の興もなくて、不破の関、あつみの山など越えて、近江の国、おきながといふ人の家に宿りて、四五日あり。

 みつさかの山の麓に、よるひる、時雨、あられ降り乱れて、日の光もさやかならず、いみじう物むつかし。そこを立ちて、犬上、神崎、野州、くるもとなどいふ所々、なにとなく過ぎぬ。湖のおもてはるばるとして、なでしま、竹生島などいふ所の見えたる、いとおもしろし。勢多の橋みなくづれて、わたりわづらふ。

瀬田の唐橋


 粟津にとゞまりて、師走の二日、京に入る。暗くいき着くベくと、申の時ばかりに立ちて行けば、関ちかくなりて、山づらにかりそめなるきりかけといふ物したる上より、丈六の仏のいまだあらづくりにおはするが、顔ばかり見やられたり。あはれに、人離れて、いづこともなくておはする仏かなと、うち見やりて過ぎぬ。こゝらの国々を過ぎぬるに、駿河の清見が関と、逢坂の関とばかりはなかりけり。いと暗くなりて、三条の宮の西なる所に着きぬ。

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