2019年奈 良

薬師寺〜碑巡り〜
indexにもどる

平城宮跡から秋篠川沿いの自転車道を走って、薬師寺(HP)へ。

北 門


 天武天皇9年(680年)、天武天皇が皇后(後の持統天皇)の病気快復を祈り発願(ほつがん)された寺。

「薬師寺」 この寺の建立は、天武天皇の八年(六八〇)に皇后の平癒のために天皇これを起願したるに、その後天皇崩じ、平復したる皇后は即位して持統天皇となり、高市郡木殿(キドノ)の地に先皇の遺願を継承して、一伽藍の造立を企て、文武天皇の二年(六九八)に至り、その諸堂の構作は大略完了したるに、養老二年(七一八)の平城遷都となり、木殿に建立せしこの寺は、両塔とともに、そのまま原地に留め、それと殆ど同様式なる諸堂を新に奈良の新京に建立し、その東塔が成りしは、天平二年(七三〇)なり。


法相宗大本山の寺である。

拝観券は1,100円。

大講堂


大正8年(1919年)12月、高浜虚子は薬師寺を訪れている。

十二月末。京都奈良急行。
奈良薬師寺。

 塔の上に昼の月ある時雨かな


會津八一の歌碑


すいゑんの
   あまつをとめか
   ころもての
ひまにもすめる
   あきのそらかな

「すゐえん」 水煙。すべて塔の頂上に立つ九輪の上には、恰も火焔の如き形に鋳造せる銅板を掲ぐ。これを「水煙」といふ。「水」の字を用ゐるは火難を禁厭する意なり。この薬師寺のものは、雲気の中に数名の飛天が、歌舞音楽せるさまを作り込めたり。往々意匠の独創を以て称せらるるも、実はその源は印度に発し、中国六朝時代以後の仏像の光背などには、むしろ屡襲用されたる様式なり。

「飛天」とは飛行する天人といふこと。或は天華、或は天香、或は天楽を以て空中より諸仏を供養す。一般には女性の如く考へらるるも、その中に両性あり。さればこの場合には作者は「をとめ」と呼べるのみ。

『自註鹿鳴集』

佐佐木信綱の歌碑


逝く秋の
   やまとの國の
   薬師寺の
塔のうへなる
   一ひらの雲

ともに東塔を詠んだ歌であるが、東塔は現在解体修理中。

令和2年(2020年)4月、落慶法要。

    薬師寺東塔

くさ に ねて あふげば のき の あをぞら に

すずめ かつ とぶ やくしじ の たふ


 昭和4年(1929年)4月2日、高浜虚子星野立子を連れて薬師寺へ。

四月二日。奈良見物。東大寺唐招提寺、薬師寺等一巡。

 鹿のゐる馬酔木の奈良に来りけり


 金堂の屋根に時々晴れ間のうす日がさしてゐた。薬師
寺の塔の下に立つていろいろ父から話をきく。屋根の形
がいゝいゝといく度も聞かされる。私も大好きになつた。

「玉藻俳話」

西 塔


西塔縁起

 塔はインドの古いことばでストゥーパといい、本来釋尊の舎利(御遺骨)を祀る墓を示した。中国ではそれが卒塔婆と音訳され、やがて日本にも「卒塔婆」として伝来した。その後一般には墓標を「塔婆」と呼び慣わし、寺では塔とのみ呼称するようになった。

 白鳳時代に薬師寺が日本で初めて2基の搭を相対し配置する伽藍様式にて建立した。以後この様式を「薬師寺式伽藍配置」と呼称するようになった。

 西塔は享禄元年(1528年)、金堂・講堂・中門等とともに兵火によって焼亡し、以来数百年にわたり礎石のみが虚しく往古の壮美を偲ばせる有様であった。近年に至り般若心経の百万巻写経勧進に呼応して、全国より寄せられた佛心がここに凝集され、昭和56年遂に白鳳時代さながらの塔が復元された。

 西塔建築は塔高36米、総桧造りで、東塔の綿密な調査と古記録の研究に基づいた設計による完全復元であって、東塔に並ぶ美しい諧調に加えて、鮮やかな丹青が施されている。塔の心礎には平山画伯の将来された佛舎利が奉安されている。

 創建時は内陣に釋尊のご生涯(仏伝)の内、後半生果相(成道・転法輪・涅槃・分舎利)を表す涅槃群が祀られていたが、搭と共に焼失した。

 平成27年、彫刻家中村晋也氏が、往時の仏伝を金銅製によって、現代に蘇らせた。

昭和14年(1939年)9月30日、星野立子は玉藻大阪句会で薬師寺へ。

 九月三十日。玉藻大阪句会で奈良に行く。薬師寺。

  塔の辺は松ばかりなる秋灯濃し


昭和35年(1960年)、山口誓子は薬師寺を訪れている。

   藥師寺

塔の巣の羽落ち落ちて地に達す

直立塔そこに雀の親の聲

近づくにつれ塔重き春の暮

『青銅』

金 堂


本尊は薬師如来。

昭和51年(1976年)、落慶。

東院堂


国宝だそうだ。

薬師寺本坊前に前川佐美雄の歌碑があった。


送りくる
法師が
照らす灯あかりに
茎青かりき
夜の曼珠沙華

明治36年(1903年)2月5日、前川佐美雄は奈良県に生まれる。

大正10年(1921年)、「心の花」に入り、佐佐木信綱に師事。

平成2年(1990年)7月15日、87歳で死去。

2019年奈 良〜に戻る