2019奈 良

平城宮跡〜棚田嘉十郎〜
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京都から「みやこ路快速」で奈良へ。


奈良でレンタサイクルを借りて、平城宮跡歴史公園(HP)へ。

棚田嘉十郎翁像があった。


大極殿跡を指差している。

平成2年(1990年)8月16日、建立。

棚田嘉十郎

 万延元年(1860年)、現在の奈良市須川町に生まれる。明治の中頃、奈良公園で植樹の職にたずさわっているとき、観光客から平城宮跡の位置を問われ、荒れ放題の宮跡に保存の意を強める。明治35年(1902年)、地元での平城宮跡保存の運動が高まると嘉十郎も参加、平城神宮の造営をめざしたが、資金面で行き詰まる。

 以来、嘉十郎は、貧窮の生活のなか、自費で平城宮跡の保存を訴え、上京を繰り返し、多くの著名人から賛同の署名を集める。そのようななかで、地元の有志・溝辺文四郎らは、嘉十郎の運動に協力し多くの援助をおこなった。

 明治43年(1910年)平城奠都1200年祭が企画されると、嘉十郎は当時の知事に協力を得て、御下賜金300円をたまわるなどして成功に導く。その後、大正2年(1913年)徳川頼倫を会長に念願の「奈良大極殿址保存会」が組織され、大極殿に標石28基を配置するとともに記念碑を建てて往時の遺構を永久に保存することを決め、嘉十郎の労がはじめて日の目を見ることとなった。しかし、用地買収が軌道にのりだして間もなく、嘉十郎が推挙した篤志家が約束を破ったことの責任を痛感し、大正10年(1921年)8月16日自刃、嘉十郎は、61歳の生涯を閉じた。

 苦難に満ちた嘉十郎の悲願は、支持者の努力により達成され、嘉十郎自刃の翌年、大正11年(1922年)に国の史跡として保護されることとなった。

知らなかった。

朱雀門


 朱雀門は平城宮の正門。朱雀とは南を守る中国の伝説上の鳥をいう。第一次朝堂院の南方、平城宮南面中央に位置する。東西約25m、南北約10mの大きさで、基壇上に建ち、屋根は二重で入母屋造り。他の宮城諸門よりひとまわり大きく、立派である。門前の広場は元日のお祝いなど儀式の場としても用いた。

 朱雀門から南へ延びる道路は朱雀大路。平城京のメインストリートで、幅は約70m、平城京の正面玄関羅城門まで続く。

敷地の中を近鉄奈良線の電車が走る。


大極殿


高御蔵


薬師寺へ。

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