2012年長 野

下諏訪町〜旧中山道〜
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JR東日本中央本線の下諏訪駅で下車。

下諏訪町の旧中山道を歩いてみる。


下諏訪宿 甲州道中中山道合流之地


 下諏訪町は、中山道と甲州道中の交わるところ、諏訪神社総本社の門前町であり、豊かな温泉が涌く宿場町として街道一賑わった。

時の科学館儀象堂前に島木赤彦の歌碑があった。


電灯に照らされてゐる朝顔の紺いろの花暁近づけり

綿の湯


神話と伝説 綿の湯

 諏訪大社は、上社の本宮・前宮と、下社の秋宮春宮の総称です。

 その昔、上社の地にお住まいの諏訪明神建御名方神のお妃八坂刀売神が、日頃お使いになっておられたお化粧用の湯を綿に湿し「湯玉」にして下社の地へお持ちになりました。その湯玉を置かれた所から湧いたのがこの温泉で、綿の湯と名付けられました。神の湯ですから神聖で、やましい者が入ると神の怒りに触れて、湯口が濁ったといい、「湯口の清濁」は下社七不思議の一つに数えられています。

 下諏訪宿は中山道と甲州道中が交わるところ、全国一万余の諏訪神社総本社の門前町で、湯の湧く宿場として親しまれ街道一賑わいました。下諏訪宿の中心が綿の湯界隈です。

 松尾芭蕉と門人近江国膳所藩士菅沼曲水の連歌

入込みに諏訪の湧き湯の夕まぐれ
   曲水

中にもせいの高き山伏
   芭蕉

入込みは共同浴場のこと、夕暮れの宿場の賑わいがしのばれます。

 元禄3年(1690年)3月中・下旬頃、芭蕉の「木のもとに汁も膾も桜哉」を発句にして近江の門人珎碩、曲水と巻かれた歌仙である。

下諏訪宿本陣


 下諏訪町文化財
史跡 本陣遺構

 江戸時代中山道の大きな宿場として殷盛をうたわれた下諏訪の問屋兼本陣の大半がそのままここに残っている。維新前は公卿や大名たちの休泊所になり、文久元年(1686年)11月には関東へ御降嫁の和宮さまのお泊所となり、明治13年6月24日明治天皇ご巡幸のときにはお小休所になった。

下諏訪町教育委員会

 元禄4年(1691年)10月9日、森川許六は彦根藩中屋敷を出て彦根藩に帰る。13日、下諏訪宿に泊まり温泉に入っている。

猶たどりたどり下る山路の入あひ過るころ、下の諏訪に宿をかりて温泉にひたり、旅の草臥をやすめぬ。

湖水の東にあたり、山越に富士山見えたり。山八分よりあらは也

元政やひねくり廻すふじの雪
背から物いふ富士や雪のくれ


 享和2年(1802年)4月1日、太田南畝は下諏訪宿に泊まっている。

下諏訪の駅舎にぎはゝし。秋の宮の前をすぎて檜物屋□□にやどる。宿のむかふに温泉あり。宿のあるじ風呂たく労をはぶきて温泉に浴せしむ。


小林一茶の句碑があった。


又も来よ膝を貸さうぞきりぎりす

出典は『七番日記』

文化9年(1812年)7月の句である。

無料休憩所があった。


まだ休憩するには早い。

一里塚跡


江戸より55里。

 明治27年(1894年)6月、高浜虚子は諏訪に泊まり温泉で疲れを休めた。

羊腸たる山道長く、麓路近く水の光るは諏訪の湖なるべし。夕暮の諏訪の宿に一夜の宿りを乞へば、つくづくと我を見て空室なければとことわりぬ。言葉ねもごろに幾度か頼めば、いぶせき部屋に請ぜられて菅笠の文字は何ぞと独りをかし。裏に湧き出づる温泉に二日のつかれを休め、湖畔の夢のどかなり。

「木曽路の記」

諏訪大社下社春宮へ。

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