2016年長 崎

日見峠〜「芒塚句碑」〜
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国道34号日見トンネル東口の丘を上ると、「芒塚句碑」があった。


県指定有形文化財 芒塚句碑(3基)

 向井去来(1651〜1704)の句碑で、天明4年(1784年)に長崎の俳人達が建立した。去来(名・兼時、字・元淵、通称・平次郎)は、儒医向井元升の二男として、長崎の後興善(うしろこうぜん)町(旧新興善小学校裏門付近)に生まれた。8歳の時に父とともに京都に移住、30歳半ばにして芭蕉の門人となり、蕉門十哲の一人と称された。 元禄2年(1689年)に一時帰郷、長崎に蕉門俳諧を伝えた。正面の去来「句碑」正面は、去来が長崎を離れるに際し、この地で見送りの人達に対して詠んだもので「君が手もまじるなるべし花薄 去来」、裏面に「天明四甲辰年三月吉旦 發企玉渕 崎陽蕉門末流其等謹建 石工正廣」と刻まれている。左側の「漢詩の碑」は、去来の紹介や漢詩が刻まれている。 右側の「献句の碑」は、去来を顕彰して安政3年(1856年)に建立したものと見られる。

正面の去来「句碑>」


君が手もまじるなるべし花薄

 元禄2年(1689年)5月、去来は田上尼を送って長崎に赴き、秋に簑田卯七に送られて帰京。

   つくしよりかへりけるに、ひみといふ山
   にて卯七に別て

君がてもまじる成べしはな薄
   去来


 明和8年(1771年)5月、蝶夢は日見峠を越えて長崎へ。

 矢上の宿より、天草嶋手にとるばかりに見ゆ。日見といふ峠を越れば、やがて長崎の津也。年比のむつびあれば、勝木氏が家に入りて長途の疲をわする。


 文化2年(1805年)10月10日、大田南畝は長崎奉行所の仕事を終えて江戸に向かう。日見峠で芒塚を見ている。

文化二のとし、神無月十日、卯のときすくる頃、長崎を出て、あづまにかへる。

日見峠にのぼれば、網場(あば)の方の海みわたさる。峠の道を下る左に湧泉あり。夢想水の字を石に刻む。又ゆく、道の左に落柿舎去來の發句をきざむ。「君が手もましるなるべし花薄」とあり。折からも枯尾花にむかしを志のぶ。

『小春紀行』

 嘉永3年(1850年)9月4日、吉田松陰は長崎に遊学する途中で日見峠を越える。

日見坂を越ゆ。此の坂夥しく僵松(たおれまつ)あり。此の邊總て勤農なり。山の頂まで墾して畠とす。坂の頂に大村領、佐嘉領の界あり。


 明治43年(1910年)3月24日、河東碧梧桐は長崎街道に尾花塚があると聞いている。

あの展(の)びた家の末の山と山との間が、諫早に通ずる街道になるのであるが、そこに去来の尾花塚がある。と美哉が語る。長崎に住んでおったのは卯七であるが、その跡は残っておるか、何か遺物は無いか、など質問が出る。


 昭和7年(1932年)2月8日、種田山頭火は芒塚を見ている。

長崎から坂を登つて来て登り尽すと、日見墜道がある、それを通り抜けると、すぐ左側の小高い場所に去来の芒塚といふのがある。

      芒塚 去来

   君が手もまじるなるべし花薄

    ・けさはおわかれの卵をすゝる
    ・トンネルをぬけるより塚があつた(去来芒塚)
    ・もう転ぶまい道のたんぽゝ


 昭和30年(1955年)5月19日、高浜虚子は日見峠で芒塚を見ている。

 五月十九日。支那寺、天主堂等。警察本部にて、立子署員に小俳話。有田に向ふ。夏目義明東道。日見峠にある去來の芒塚。

   君が手も交るなるべし花芒   去来

 井上米一郎の門前を過ぎる。

   芒塚程遠からじ守るべし    虚子

「詫びの旅」

芒塚程遠からじ守るべし

   五月十九日、日見峠に去来の芒塚を見、井上米一郎に寄す。


 昭和36年(1961年)9月、山口誓子は去来の碑について書いている。

 長崎の日見峠には昔から去来の碑があった。私は行って見なかったが、峠を越えた路傍にあって、高麗狗を載せた印材そっくりの碑石だそうだ。

   君が手もまじるなるべし花薄

 「猿蓑」に出ている句だ。「筑紫より帰りけるに日見といふ山にて卯七に別れて」という前書がついている。「筑紫より」長崎に帰っていたが、いよいよ京へ上るとて「日見といふ山にて卯七に別れて」だ。

 見送る者は、長崎から一ノ瀬街道を日見峠まで来て、別れを惜しんだ。下れば矢上。諫早、大村へと行く。峠は上下二里、「坂甚だ急峻、馬に乗る事難し」という難路だった。

 峠には芒の穂が動いていた。卯七が別れを惜しんで振る手が、芒の穂にまぎれるのだ。

 句碑は天明四年創建。

『句碑をたずねて』(四国・九州路)

長崎街道

 長崎街道は、長崎から江戸や京・大阪までを結んだ九州一の大幹道で、正式には長崎道や長崎路と呼ばれた。江戸時代には東海道中山道などの五街道と呼ばれる街道があったが、これに次ぐ重要な街道が長崎街道のような脇街道であった。江戸時代の初めの頃は長崎〜浦上〜時津〜彼杵というコースが一般的であったが、その後は、長崎〜矢上〜諫早〜大村〜彼杵のコースが定着した。後者のコースが矢上道や諫早道と呼ばれたコースである。

 長崎から小倉までは57里、時代によっては違いがあるが25宿ほどあったといわれ、大人数であれば7日ほど、小人数ならば4日ほどの旅程であった。出島和蘭商館の商館長らが江戸参府で通った道として有名であるが、長崎奉行や各地の商人、文人墨客、幕末の志士ら様々な人々が行き交った街道でもあった。また、中国やオランダとの交易品などが輸送され、日本の政治・経済・外交・医学・文化などに貢献した重要な街道であった。

 江戸期における長崎の関門は日見峠の関所で、幕末期には旅人達の厳重な監視が行われたという。また、この峠は長崎街道の中でも「西に箱根」と呼ばれるほどの難所であった。

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