2015年山 形

致道博物館〜旧西田川郡役所〜
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奥羽本線鶴岡駅からタクシーで致道博物館へ。


致道博物館の沿革

 鶴岡は、江戸時代、庄内藩14万石の城下町として発達した町で、鶴ヶ岡城(現在の鶴岡公園)は、江戸時代初めから明治時代になるまで藩主酒井氏の居城でした。この現在地は、お城の三の丸にあたり、藩の御用屋敷や藩主の隠居所となっていた所で、明治時代以降は酒井氏の邸宅でした。1950年(昭和25年)酒井氏より郷土文化の向上のためにその土地や建物、美術工芸品などが寄付され、博物館が設立されました。その後、多くの方々のご協力によって調査収集した考古・歴史・民俗・美術資料や移築復元した重要文化財「旧西田川郡役所」、「多層民家旧渋谷家住宅」、名勝「酒井氏庭園」などを公開し、庄内地方の歴史と文化に触れることができる施設となっています。

料金は700円。

入館者は少なかった。

重要文化財旧西田川郡役所


雪の降る町鶴岡に青空は珍しい。

 明治13年(1880年)6月に当市の大工棟梁高橋兼吉、石井竹次郎が初代県令三島通庸の命によって着工し、翌14年5月に完成した建物である。同年秋、明治天皇東北御巡幸の折には行在所(御宿舎)にあてられた。

 創建当初は市内馬場町(現在の消防署)に南向きに威容を誇っていたが、永く保存するため、昭和47年(1972年)当館に移築復元したものである。(付属建物として議事堂、用務員室があった。)

 この建物は明治開花期に外国の影響を受けた擬洋風建築で、外観は簡素ながら均整のとれた意匠を示している。上げ下げ硝子窓、玄関柱は柱脚台と頸巻繰形でバランスをとり、軒先廻りの化粧陸垂木などはルネッサンス風で、また2階の釣階段は鹿鳴館時代を偲ぶことができる興味深いものである。

御隠殿


 ここの土地は酒井氏入国当時(元和8年・1622年)から藩の御用屋敷で、慶安年間(1648−1651)には三代酒井忠勝の次男忠俊の住居があった。

 現存する建物は、文久3年(1863年)十一代忠発(ただあき)の時に藩主の隠居所(御隠殿)として建てられたもので、江戸屋敷から移築したものと伝えられる。奥の屋敷では「能」を演ずることができるように、きれいな床板が張られ、床下には音響をよくするために大きな甕が並び据えられていたといわれる。

 玄関と奥の座敷が当時の建物の一部で、大名屋敷の広壮な面影を偲ぶことができる。

 元和8年(1622年)、酒井忠勝は信濃国松代藩より3万8千石の加増を受け、庄内に13万8千石で入封。

 寛永9年(1632年)5月22日、熊本藩主加藤忠広は江戸参府途上品川宿で入府を止められ、池上本門寺にて改易の沙汰があり、出羽庄内藩主酒井忠勝にお預けとなる。細川忠利が小倉から熊本54万石に加増移封された。

旧鶴岡警察署庁舎は保存修理中であった。

重要文化財旧渋谷家住宅(田麦俣多層民家)


 東田川郡朝日村田麦俣は湯殿山麓の村落で、全国でも有数の豪雪地帯である。江戸時代には出羽三山参詣のための道者宿をしたり、強力や馬子をつとめて生活していたが、明治維新後、宗教集落的性格を失ない、わずかの田畑を耕し、養蚕と炭焼を生業とするようになった。

 この地方を代表的な当建築物はそのため創建当初の寄棟造りの破風窓のある妻の部分を切り取り、養蚕場として十分な採光通風の窓(高はっぽう)としたので、現在のような美しい輪郭と反りをもった「かぶと造り」という独特な外観の民家ができ上がった。

 この民家は部屋の天井を高くし、高窓を設けるなど雪国らしい手法がみられ、構造は上屋柱と下屋柱からなり、小屋は、さす組み、軒はせがい造りである。

 近年の急激な生活様式の変化によって消滅寸前であったため、昭和40年当館に移築復元したものである。

酒井氏庭園の前に「芭蕉の句碑」があったが、茣蓙で覆われていた。


珍らしや山をいで羽の初茄子

 松尾芭蕉が「奥の細道」の旅の途次、鶴岡で詠んだ有名な句。

 この句碑は芭蕉ゆかりの「自然庵」(現本町3丁目にあった。後「芭蕉庵」といった。)の傍らにたてられていた。伝えによれば、鶴岡の俳人長沢千翅(太治兵衛)が享保年間に建てたといわれる。後に湯田川温泉に移され、昭和60年5月、当館に寄贈された。当地芭蕉碑の中、年代も古く貴重なものである。

適当なバスの便がないので、タクシーで鶴岡駅へ。

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