五時札幌着。大通りというのに出て、芝生の一面に青く萌えておるのを珍らしく思う。第一番の春に会うたような心持になる。しかい梅も桜も柳もそこらにある立木もまだ枯木である。 |
明治40年(1907年)9月14日、石川啄木は札幌停車場に着く。16日、北門新報社の校正係として出社する。 |
午后一時数分札幌停車場に着。向井松岡二君に迎へられて向井君の宿にいたる。既にして小林基君來り初対面の挨拶す、夕刻より酒を初め豚汁をつつく。快談夜にいり十一時松岡君と一中学生との室へ合宿す。予は大に虚偽を罵れり赤裸々を説けり、耳いたかりし筈の人の愚かさよ、予は時々針の如き言を以て其鉄面皮を制せり。 今札幌に貸家殆ど一軒もなく下宿も満員なりといふ、 |
札幌は寔に美しき北の都なり。初めて見たる我が喜びは何にか例へむ。アカシヤの並木を騒がせ、ポプラの葉を裏返して吹く風の冷たさ。札幌は秋風の国なり、木立の市なり。おほらかに静かにして、人の香よりは、樹の香こそ勝りたれ。大なる田舎町なり、しめやかなる恋の多くありさうなる郷なり、詩人の住むべき都会なり。
明治40年作 |
しんとして幅廣き街の |
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秋の夜の |
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玉蜀黍の焼くるにほいよ |
国民的歌人として知られる石川啄木が函館・札幌・小樽・釧路と本道漂泊の旅を続けたのは、21歳の折の明治40年春から翌年春にかけてであった。 札幌には秋9月の2週間滞在し、北門新報社に勤めた。啄木の代表的歌集『一握の砂』は近代詩歌史上もっとも愛唱されているが、ここに刻んだ歌には明治の札幌の心情が鮮やかに詠まれている。 啄木は札幌を「美しき北の都」とも「住心地最も良き所」ともいったが、そのゆかりを想い、ことし七十回忌にちなんで、この記念碑を建立するものである。 昭和56年9月14日
石川啄木記念像設立期成会 |
昭和8年(1933年)8月25日、高浜虚子は札幌の放送局から放送する。星野立子はついて行って見る。 |
その晩は札幌の放送局から父が放送するので、ついて 行つて見る。丁度東京から四家文子さんの独唱が聞こえ てきてゐたので何となく懐しかつた。落合百合さん(現 三橋夫人)の父君がこゝの方なのではじめてお逢ひする。 札幌の放送局や羽蟻の夜
「玉藻俳話」 |